豊臣秀吉が山崎の合戦で明智光秀を討つ

豊臣秀吉が山崎の合戦で明智光秀を討つ

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豊臣秀吉は、四つの時期に分けることができます。一つ目は、1582年から84年で、織田信長の後継者としての地位を確かなものにしていく時期です。当時は、織田信長の後継者がまさか羽柴秀吉だとは、誰も思っていませんでした。そこで、1582年におこなったのが、山崎の合戦です。

 

豊臣秀吉が山崎の合戦で明智光秀を討つ

 

羽柴秀吉は、備中(いまの岡山県)の高松城で水攻めをしていました。彼は、本能寺の変の知らせを聞くとすぐに、相手方の毛利氏に連絡をとって、和睦をします。結果から見ると、毛利氏はここで和睦にOKを出したからこそ、豊臣秀吉政権のもとで五大老、有力大名として残ることができたのです。

 

 

逆に考えると、織田信長がもう少し遅くに死んでいたら、水攻めに決着がついていて、毛利はそこで滅亡していたかもしれないということです。毛利氏が和解をしていなかったら、明智光秀は生き残っていたかもしれません。

 

また、毛利氏が和睦に応じてくれたおかげで、秀吉は明智光秀をすぐに討伐しにいくことができました。何かのタイミングがちょっとでもずれていたら、秀吉は天下統一できていなかったかもしれないのです。

 

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大阪城の築城

 

とりあえずは、秀吉は山崎の合戦で勝利し、明智光秀を倒しますが、このときもまだ、誰も秀吉が信長の後継者だと思っていませんでした。

 

では、信長の息子が重臣から後継者だと思われていたかというと、そんなことはありませんでした。戦国時代というのは、もっとも力をもっているものが天下をとるという考え方(天下持ち回り)が普通だったので、親から子へ引き継いでいくものではありませんでした。

 

 

当時、信長の後継者としてもっともふさわしいといわれていたのが、越前の柴田勝家でした。なので、秀吉は、その柴田勝家を1583年に賤ヶ岳の戦いで討伐しました。柴田勝家はどちらかというと、自分が前線を張るというより、参謀役や補佐役にまわるタイプです。

 

豪傑な武将というよりは、織田信長の最重要家臣であり、忠実な家老というポジションの人で、信長の戦略を指導したりもしていました。人を欺くことにも長けていた秀吉にとっては、それほど強大な敵ではなかったのかもしれません。

 

 

そして、柴田を倒したのと同年、秀吉は大阪城の建設をはじめます。これは、織田信長が長篠の戦いで武田を倒したあとに安土城を建てましたが、それと理由は全くおなじです。それだけではなく、大阪城は、その頃の宗教勢力で最大の権力を誇っていた一向宗の石山本願寺の跡地につくられたのです。

 

これは、大名の頂点にも立ち、宗教勢力も制圧したということの証です。ただ、豊臣秀吉は、重要なことは大体京都で済ませていたので、大阪にはあまりいきませんでした。なんとなく秀吉というと大阪というイメージが強いですが、それは、権力を誇示する城を大阪に建てて全国に知らしめたからかもしれません。





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