遣隋使の目的とは何か?
ツイート中国から優れた文物を取り入れようという目的の交流を深めるために、推古天皇は遣隋使の派遣をおこないました。このことから渡来人とのつながりがあったと考えられます。推古朝以前は、国内をより強力に支配するために中国の力を必要としていました。そのために臣下という立場であっても中国との交流が必要だったのです。
しかし、遣隋使として派遣された小野妹子は、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれた、中国と対等であるいう内容の国書を持参して対等外交を求めたのでした。5世紀の中国は南と北に分かれている南北朝時代でした。北朝の北魏は匈奴などの北方民族の侵略によってつくられました。
対して、もともと漢民族がいた地域の南朝には宋や斉などがありました。北朝系の隋によって南北朝は統一されたのでした。倭国は南朝と親しくしていましたが、聖徳太子は北朝系の隋に遣隋使を送りました。おそらく聖徳太子が対等外交を要求したのは、隋が南朝系の漢民族の国ではなく異民族の北朝の国だったから、あえてこちらから臣下の礼をとる必要がないと考えたのかも知れません。
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