大伴金村の失脚の理由

大伴金村の失脚の理由とは?

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物部氏と蘇我氏が天皇の後継者に自分たちの息がかかった人物を立てるようになったのは、継体天皇の死後です。安閑、宣化という継体天皇の子孫が後を継ぎ、そのあと欽明天皇が即位したように「日本書記」には綴られていますが、本当のところは物部氏と蘇我氏が継体天皇の死後に一緒に欽明天皇を担いだので、二人の天皇が同時に存在する二所朝廷のような状況になったそうです。

 

大伴金村の失脚の理由とは?

 

欽明天皇は本妻ではない女性の子どもとはいえ、継体天皇の子どもだったのですが、大伴氏との関係がどうしても希薄になり、物部氏と蘇我氏との繋がりのほうが濃いものがありました。それでも大伴金村は継体天皇が生きている間はまだまだ権力があったのですが、安閑天皇が即位したころには力が弱まり、その後の宣化天皇の頃にはさらに弱化していました。

 

そして540年、ついに物部尾輿(麁鹿火の子ども)によって大伴金村はその地位を失います。ここから物部氏の権力がどんどん強くなっていくのですが、それは当然ともいえます。





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