新井白石と間部詮房の登用

新井白石と間部詮房の登用

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徳川綱吉の跡継ぎは、六代・家宣です。彼は三代・家光の孫で、甲府の藩主だったのですが、綱吉に子どもがいなかったため、養子となって将軍に就任しました。たとえ将軍が変わったとしても、幕府がお金に困っていることに変わりはありません。なので、家宣は朱子学者である新井白石と側用人の間部詮房を登用します。

 

新井白石と間部詮房の登用

 

朱子学と徳川家には深い関係があり、五代・綱吉のときには林鳳岡(信篤)を大学頭に任命し、儒学の祖である孔子を祀る湯島聖堂を建設させました。藤原惺窩の弟子の林羅山が最初の林家で、家康のもとで政治顧問をしていたのですが、そのあと、林鵞峰、林鳳岡と続いていき、朱子学は林家の系統が初代から五代将軍まで続いてきました。それが、六代将軍のところで一度途切れます。

 

なぜかというと、五代・綱吉に子どもが生まれなかったからです。家宣は綱吉の養子なのですが、遠い親戚だったので、小さい頃から林家の学問を学んできたわけではありません。それより、木下順庵の系統の学者が朱子学の補佐をつとめることになり、それが新井白石でした。ひどかった幕府の財政の現状をどうにかすべく、積極的に白石は政治改革にのりだします。





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