寛政の改革の棄捐令と松平定信の失脚

棄損令

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ホームレス対策については、幕府自身はお金をもっていないので、各町内の自治会に任せたわけなのですが、このように民間にやらせるという措置はかなりたくさんあって、その一例が町火消です。

 

寛政の改革の棄捐令と松平定信の失脚

 

町火消は吉宗の享保の改革のときにつくられたのですが、それ以前は幕府がお金を出して対処する定火消でした。この時は旗本が火事に対処していたのですが、どうしても数が少なくて、江戸のいろいろな所で起こる消火活動にはとても対応しきれませんでした。そこで、その役目を町人に任せるようにしたのです。

 

少ないお金でやりくりするには、何か困ったことが起こったときに、何でもかんでも税金を使って対処するのではなく、民間にできることは民間にやらせようという方法をとらないと、当時は国債を発行していないので、やっていけませんでした。

 

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また、1789年には、旗本・御家人を対象とした救済措置をとるために、棄損令を出しています。これは、旗本や御家人に貸していたお金を札差に放棄させるというものですが、もちろん全部が帳消しというわけではなく、5年以内の借金については、利息を低くして分割払いができるようにし、6年以上たった借金については諦めてもらう、という制度です。

 

札差は、旗本や御家人が給料でもらうお米を換金することで儲けていて、さらにお金を貸すことでも利益を得ているので、二重の儲けを得ています。札差免許を取り上げられると商売ができなくなるので、業者側もこれには納得せざるを得なかったのです。

 

 

寛政の改革の限界

 

松平定信の寛政の改革も、中にはうまくいかないこともありました。あまりにも理想を追い求めてしまったため、現実とかけはなれた部分があったことも否めません。もちろん、田沼政治ではびこった腐敗を取り除くことはできましたが、規則が厳しすぎたため、一般の人の中には守らない者もいましたし、反発を招いてしまいました。

 

この時代は、飢饉がよく起こっていたこともあって、農村部を軸に一揆が相次いでいます。しかも、その規模は大きく、広い地域でおこなわれていたので、多くの農民が参加するようになりました。これは惣百姓一揆といって、農民による規模の大きな一揆のことを指します。

 

結果的に、松平定信は老中をやめさせられてしまい、寛政の改革は途中で終わってしまいました。





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