俸禄制による江戸時代の給料と税金

俸禄制による江戸時代の給料と税金

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当時の給料は、お金ではなく、お米で支払われていました。まず、その土地から採れる生産高のことを石高といいます。なにをもとに決めていたかというと、徳川家康が国絵図、郷帳をつくらせましたが、それがもとになりました。

 

俸禄制による江戸時代の給料と税金

 

耕地面積は、16世紀末から18世紀初頭までの100年間でおよそ二倍になっています。ただ、耕地にはランクがあり、それぞれ上田・中田・下田・下々田というようになっていて、これを石盛といいました。耕地面積によって単純に決定するのではなく、石盛に面積を掛けたものが石高となりました。

 

石盛は人によっても、また、土地によっても変わります。同じ人の土地でも、下田と下々田では異なるなど、いろいろな要素を考え合わせて決められました。江戸時代初期の武士の給料は、地方知行制でした。どういったものかというと、たとえば二千石の旗本の場合、二千石の土地を与えられて、実際にその土地を耕している農民から年貢を徴収し、とった分が旗本家の収入になる、というシステムでした。

 

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ただ、これだと旗本自身が年貢の徴収をしなければいけません。幕府に務めながらでは、とてもじゃないけどそんな暇はないので、給料をお米でもらうという俸禄制に変わりました。この頃は、旗本や御家人の給料は、現金ではなくお米で支払われていました。そして、給料としてもらったお米は、札差という専門業者(米商人)のところでお金に換えてもらっていました。

 

ただし、お米は直接業者の倉庫に送られていて、札差がそれを換金して旗本や御家人に渡していたので、大八車に俵を積んでもらっていたわけではありません。なので、江戸時代の真ん中以降になると、給料の前借りというか、旗本と御家人は札差に借金をするようになりました。

 

札差からみても、旗本や御家人は公務員なので、取りっぱぐれることはないだろう、ということで、信用があったので、お金を貸してくれました。そんなふうにして、なんとか旗本や御家人は生活を送っていたわけです。借金が多くなってくると、事件が起きることもあって、瓦版や芝居のネタになったりしました。





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