八月十八日の政変と新撰組の禁門の変について

八月十八日の政変とは?

このエントリーをはてなブックマークに追加  

1863年5月10日、薩英戦争がはじまる2ヶ月ほど前のことですが、航行中の外国船にむけて、長州藩が下関の砲台から砲撃をするという事件が起きました(長州藩外国船砲撃事件)。最初の砲撃はまったく当たらなかったのですが、そこに乗組員が小さなボートに乗って何が起こったか見にきたので、もう一度砲撃をしたところ、そのボートに届き、沈没させてしまいました。

 

八月十八日の政変と新撰組の禁門の変について

 

それだけで「われわれは攘夷を実現した」と喜んでいたのですが、単に小さなボートを沈めただけで、死者も出ていません。長州藩は、孝明天皇を担いで攘夷運動を推し進めていて、朝廷の警備も担っていたため、長州藩が京都で実権を握っているといっても過言ではありませんでした。

 

しかし、この事件は公武合体を推進していた幕府にとっては、とても都合が悪い話でした。薩摩藩と会津藩も幕府と考えが近くなっていたので、それらが尊王攘夷運動に反対し、京都から長州藩士の三条実美などの尊王攘夷を推進していた公家たちを追放してしまいました。これを八月十八日の政変とよび、有力な公家が七人追放されたことから、七卿落ちともいわれています

 

スポンサーリンク

 

第一次長州征討について

 

その翌年、1864年の6月に、京都で有名な池田屋事件が起こります。これは、池田屋という宿で密談していた尊王攘夷派を新撰組が襲った事件です。隠密ではないですが、新撰組は幕府につくられた組織で、文書などには記録がない秘密組織でした。

 

なぜ、設立されたかというと、その主な目的は京都における尊王攘夷派の動きを止めることだったといわれています。長州藩は、この池田屋事件のしらせを聞き、激怒します。そして京都に攻め上り、薩摩・会津連合軍と御所の蛤御門あたりで交戦します。

 

 

これは、禁門の変(蛤御門の変)とよばれていて、結果は、長州藩の完敗でした。このとき、長州藩の高杉晋作とならぶほどの松下村塾出身の逸材、久坂玄瑞が自害をしました。ここで長州藩が京都に攻め上るのは本当はまずいのです。以前に京都から追放されていましたし、朝敵ということになってしまいます。なので、朝廷は幕府に対して8月に長州征討を命じました。

 

おそらく幕府が長州征討をおこなうという話を聞いて行動したのだと思いますが、それと同じ8月に、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国が、前の年の5月10日に起こった外国船砲撃事件に対する仕返しをしにきます。これは、四国艦隊下関砲撃事件とよばれています。





このエントリーをはてなブックマークに追加