幕府と朝廷の公武合体論について

幕府と朝廷の公武合体論について

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桜田門外の変が1860年に起きたあと、様々な藩が出てきて、同時にいろいろなことをおこなっていくので、何がなんだかわからないという人がいます。たしかに入り組んでいるので、幕府、朝廷、薩摩(いまの鹿児島県)、長州(山口県)という四つの核について説明をしていきます。

 

幕府と朝廷の公武合体論について

 

これらの考え方は、事件や出来事に応じてどんどん変わっていきます。まず幕府についてですが、井伊大老が暗殺されたあとは、公武合体の路線ですすむことになります。これは文字通り、公家と武士が手を取り合い、この難局を乗り切っていきましょうという考え方です。

 

対して、朝廷側である孝明天皇も公武合体の考えではあるのですが、目標にしているところは幕府と全く違います。同じ公武合体論でも、幕府側は、「外国とともに世界の一員としてやっていくために、日本は一丸とならなければならない」というもので、開国和親です。逆に、孝明天皇の考えは、「外国を追い出すために日本は一丸とならなければならない」としたもので、攘夷目的なのです。

 

求めているものは正反対でも、同じ公武合体論ではあったので、十四代将軍である徳川家茂のもとへ、皇女・和宮の降嫁が実現するのです。ちなみに、薩摩藩は朝廷側と同じような考えをもっていて、攘夷目的の公武合体論でした。尊王攘夷だったのは、長州だけです。

 

幕府を倒すことが目的だと思われがちな尊王攘夷ですが、そういうことではありません。幕府はペリーやハリスの圧力に負けてしまうような人ばかりなので、頼りにならない。われわれは幕府は放っておいて、孝明天皇を中心に攘夷をおこなっていきたい。ということです。





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