勝海舟による江戸城の無血開城について

勝海舟による江戸城の無血開城

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戊辰戦争、つまり、龍馬が一番おそれていたことが現実となってしまったわけですが、イギリスやフランスは「待っていました」とばかりに大喜びしました。幕府側にフランスはどんどん武器を売りだしました。彼らは、武器を売って利益を得て、さらにはできることなら植民地支配や租界設定などの利権を手に入れてやろうと虎視眈々と狙っていました。

 

勝海舟による江戸城の無血開城について

 

大阪城まで引き返していた旧幕府軍は、体勢を立て直して京都を攻めますが、新政府軍に鳥羽・伏見の戦いで敗北してしまい、徳川慶喜は江戸に逃げ帰りました。慶喜のことを「朝敵」として討伐することを新政府軍が決定したため、いまにも江戸を舞台に全面戦争へ突入しそうになっていました。

 

ここで登場してくるのが、勝海舟という人で、坂本龍馬にそうした考え方を教えた人物でもあります。1868年3月、江戸の薩摩藩邸で勝海舟と西郷隆盛が話し合い、4月に江戸城の無血開城になり、戊辰戦争の大体の状況が決まります。5月までこの戦いは続きましたが、江戸城の本丸が開城してからは、それに納得できなかった人たちの地域的な紛争のみとなりました。

 

こうして、師である勝海舟によって、坂本龍馬が一番おそれていたことは未然に防ぐことができたのです。





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