徳川家斉の浪費と天保の飢饉について

米や金の目減りと浪費

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十一代将軍・徳川家斉は、松平定信が老中を追われた後もそのまま残り、将軍職を1837年に息子の家慶に譲ったあとは、大御所として政治を操り続けました。年代的には、この頃は文化・文政の時代にあたりますが、大御所時代ともよびます。財政的には、松平定信のおかげで蓄えていたお米やお金があったので、少し余裕がありました。

 

徳川家斉の浪費と天保の飢饉について

 

19世紀初頭の文化年間は、定信の考えをしっかり受け継いでいた時代だったので、定信がやめたあとも、松平信明などの寛政の遺老がその考えのもと、幕府を指導していきました。

 

しかし、文政年間にはいると、とくに大きな飢饉が起こったわけでもないのに、蓄えられていたお米やお金がだんだん減っていき、減った分を質が落ちた貨幣を発行して補おうとするなど、変わってきてしまいました。

 

経済状況としてはそこまで景気が悪いわけではないので、物価が上がっています。そこでまた質の悪い貨幣を発行して、一時的に市場をうるおわせ、そしたらまた物価が上がり、さらに品質の悪いお金を発行する・・・の繰り返しだったのが、文政年間です。

 

経済としては、この時代に大きく発展を遂げました。しかし家斉は、定信の時代に質素な生活を強いられた反動で、贅沢な生活をしたがるようになりました。なので、せっかく蓄えたお米やお金を無駄に使うことになったのです。

 

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天保の飢饉が起きる

 

このような時代のなか、天保の飢饉が1833年に起こります。この頃は文政年間も終わった頃で、松平定信がせっかく備蓄していたお米やお金も、底を尽きようとしていました。飢饉は長い間起こっていなかったのですが、急に収穫がいつもの年の半分以下になってしまったため、百姓一揆や打ちこわしがよく起こるようになります。

 

この天保の飢饉はそれほど規模の大きなものではなく、今まで蓄えていたものがあれば乗り越えられたはずなのですが、それがなくなってしまう寸前だったので、被害が大きくなりました。

 

しかし、ここで注目すべきなのは、農民や庶民の暴動とはまた違った性格の反乱が起きていることです。贅沢をせず、松平定信が蓄えてくれていたお米やお金をきちんとおいていたら、なんとかなったはずなのですが、そんなことは農民たちにはわかりません。しかし、学者と呼ばれる人たちには、その状況がよく分かっていました。





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