大阪冬の陣、夏の陣による豊臣家の滅亡
ツイート前政権の豊臣家は、徳川幕府にとって、いつ逆襲されてもおかしくない、非常に目障りな存在でした。いくら一大名に位が落ちているとはいえ、豊臣秀頼の拠点は摂津・河内・和泉という現在の大阪府で、住まいも大阪城でした。
その頃の日本の商業が一番栄えていたのは大阪だったので、その中心に六十万石の大大名がいるというのは、家康にとってあまり良いものではなく、なんとかしたいと考えます。そこで、1614年に、有名な方広寺鐘銘問題が起きた、というか、起こしました。
豊臣秀吉が建てた方広寺というものが京都にあり、建てられた当時は東大寺の大仏より大きな大仏が鎮座していたのですが、近畿大地震が1596年に起こったため、倒壊してしまいました。
それを、豊臣秀吉が1614年に建て直すのですが、そのときつくられた梵鐘に、「国家安康 君臣豊楽」と刻まれていました。この「家康」という文字のあいだに、「安」の字がはいっているということで、色々言われるはめになりました。
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これには呪いが込められていて、「家康を分断し、要するに家康の首をとることで、国を安らかにし、豊臣を君主として楽しむ」という意味だと指摘されます。これはまったくの言いがかりで、少しでも漢文を知っている人なら、絶対にそんな読み方はしないはずなのですが、むちゃくちゃな読み方をすることで糾弾したのです。
いまでも方広寺にはその鐘があることが、言いがかりであったことの何よりの証明でしょう。呪いがかかっているというのなら、さっさとつぶしてしまったはずです。そうして豊臣方を煽ることで、大阪冬の陣(1614年)と大阪夏の陣(1615年)を勃発させ、豊臣家を滅ぼしてしまいました。大阪城も、外堀だけでなく、内堀まで埋め立てられてしまいます。
そして、豊臣家がなくなったのをきっかけに、ほかの大名たちへの統制を強くしました。最初に出されたのが、1615年の一国一城令と武家諸法度です。一国一城令は、大名の居城は一つにしなさい、というもので、武家諸法度は大名に対するいろいろな統制法令です。
家康の顧問をしていた禅僧・金地院崇伝の起草によってできたもので、武家諸法度は将軍が変わるたびに発令されました。将軍による所信表明演説のようなものです。また、公家に対する統制令、禁中並公家諸法度というものも制定され、こちらも同じ崇伝が手がけたものです。
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