なぜ、徳川家康は天下をとれたのか?
ツイートここから江戸時代にはいっていきますが、大きく三つにわけて、それぞれ17世紀、18世紀、19世紀と見ていくと分かりやすいと思います。17世紀の前半は武断政治の時期、後半は文治政治の時期です。
18世紀は政治改革期といわれていて、まず、新井白石の正徳の治、次に八代将軍徳川吉宗の享保の改革、さらに田沼意次の時代、最後に松平定信の寛政の改革、というようになっています。
19世紀は、前半が大御所時代、中盤に天保の改革が数年間あり、後半はいわゆる幕末です。ではまず17世紀からですが、前半は武器で威圧するという意味の武断政治の時代でした。ここをさらに二つに分け、前半を初代将軍・家康と二代将軍・秀忠の時代、後半を三代・家光の時代とします。
豊臣政権を倒して、江戸幕府の基盤をつくっていったのが徳川家康の時代です。豊臣秀吉のやりかたは独裁的なもので、晩年になってから一応五大老や五奉行という政治の体制をつくったことはつくったのですが、単純に有名な五人の大名に就任させただけで、特に機能もせず、名目だけのものでした。
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秀吉が死んだ後は、五大老の合議で政治を動かしていくことになってはいたのですが、その合議制を誰がどうやって運営したらいいのかわからないといっていいほど、何も決められていませんでした。秀吉は、そういった体制はちゃんとつくっていなかったようです。
当然、秀吉が死んでから五大老同士で主導権をめぐって争いが起きてきます。そういったなかで、なぜ徳川家康が天下をとれたかというと、ちゃんとした理由が三つあるのです。一つ目は、五大老の筆頭であったことです。秀吉の子の秀頼はまだ幼かったので、政務などとれません。なので、いわゆる秀頼の摂政のようなかたちで、家康は五大老の筆頭として、独断で政治を推し進めていました。
二つ目は、家康には十分な財政的基盤があったことです。北条氏を1590年に倒したあと、秀吉は関東仕置という関東地方を管理するための役職を置いて、家康を就任させました。その頃家康は三河(いまの愛知県)の大名でした。なぜ秀吉が家康に関東の仕事を任せたかというと、できるだけ京都に近づけたくなかったからだといわれています。
その頃の関東はいわゆる田舎で、鎌倉府があるだけの重要な地域ではありませんでした。できるだけ京都から遠ざけておきたいということは、つまりそれだけ有力な大名だったということです。家康にそんな場所の仕事をさせるには、納得させるための見返りが必要でしたので、秀吉は彼に二百五十万石の領地を与えることにしました。そこはもともと北条氏が持っていた土地です。
蔵入地というのは、豊臣政権の直轄地のことですが、その蔵入地が二百二十万石だったので、家康にとって、それを凌ぐ経済基盤になったというわけです。それまでは、京都に近い土地とはいえ百万石ほどの領地を所有していただけでしたので、すごいことです。
そして、朝鮮出兵をまぬがれたことが三つ目です。文禄の役がはじまったのは、家康が関東仕置に任じられて2年後のことでした。家康はとても広い関東の土地を管理していかなければいけないということで、朝鮮に出向かずに済んだのです。
要するに、秀吉よりもさらに大きな財政基盤を持ちながら、朝鮮出兵で疲れたり、危ない目に遭わずに済んだということです。これは、家康にとってとても運のいいことでした。
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