徳川綱吉の時代の財政難について

徳川綱吉の時代の財政難について

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結局、いろんなことを試してみても綱吉には、子どもができませんでした。しかし、そのためにそうとうなお金が使われていたので、とうとう財政難を迎えます。学問の奨励するのにも、惜しみない投資が必要でしたが、原因はそれだけではありませんでした。

 

徳川綱吉の時代の財政難について

 

これは一つ前の四代・家綱の時代のことでしたが、明暦の大火が1657年に起こっています。俗説では、「振袖大火」ともよばれ、振袖に燃え移った火が元で大火事になったといわれていますが、実際はわかりません。

 

この大火事によって、江戸の町は大損害を受けます。町の六割が燃えてしまい、約十万人の死者を出し、江戸城の天守閣も焼け落ちてしまいました。江戸の町は大改造されていたので、それをなおすために莫大なお金がかかりました。

 

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また、それまで廃れていた朝廷の儀式の復活にも綱吉は力をいれていて、1687年には、大嘗祭といって、天皇が即位されるときにおこなわれるお祭りを、221年ぶりに復活させています。1694年には、賀茂祭(葵祭)を復活させましたが、こちらは192年ぶりでした。

 

それだけでなく、朝廷の領土である禁裏御料を二百万から三百万に増やしたりもしました。朝廷に対して、幕府がなぜそこまでやるかというと、それによって幕府の権威が高まるからでした。あくまでも、征夷大将軍(将軍)は朝廷から与えられる官職なので、朝廷の権威が低くなってしまうと、同時に征夷大将軍の権威も低くなります。

 

 

なので、朝廷の権威を高めるために様々なことをやったのです。学問の奨励、生類憐みの令にともなう造寺・造宮などのいろいろな事業、明暦の大火による江戸の町の復興、朝廷対策。ざっとあげるだけでもこれだけありますが、これらを次々とおこなったため、江戸幕府はどんどん財政難におちいっていきました。





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