延喜・天暦の治について

延喜の荘園整理令について

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延喜の治というのが醍醐天皇の代の治世を表した言葉ですが、政策で最も注目すべきところはやはり律令体制の再建でした。律令体制の基本は、大化の改新で大々的に表に出されていた公地公民、つまりすべての土地・人民を国家が所有することでしたが、それが崩れてしまい、10世紀ごろには荘園は豪族の私有地として存在していることが多くなっていました。そこで、延喜の荘園整理令が公布されて、違法な荘園の停止に働きかけられました。

 

延喜・天暦の治について

 

それと同時に、勅旨田として所有することも禁止して、皇族にも私有地をつくらせないようにしました。その他に班田もおこないましたが、そちらはすでに現状にそぐわなくなっていましたので、どうしようもありませんでした。

 

結果、醍醐天皇が描いた律令体制の再建計画は、実現せずにおわってしまいました。この頃、それまでに出されてきた格や式を分類し、整理した「延期格式」も製作されましたが、延期の治は大した結果に至らず、律令体制の再建にはまだまだ遠い結果となってしまいました。

 

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村上天皇の天暦の治

 

醍醐天皇には、朱雀天皇と村上天皇という子どもが二人いました。親政をおこなってきた醍醐天皇でしたが、次の朱雀天皇は特に親政をおこなうことはせず、藤原時平の弟の藤原忠平が摂政・関白に就きました

 

本当はこの一代で終わるはずでしたが、朱雀のときに承平・天慶の乱、つまり平将門の乱と藤原純友の乱が勃発します。摂関家はいろいろ策を講じますが、結果的にこの反乱に対して有効な手をうつことができませんでした。

 

結局この乱を鎮圧したのは、下野の押領使・藤原秀郷と追捕使・小野好古らで(押領使・追捕使とは盗賊や謀反を起こした者を制圧するための令外官)、忠平がリーダーシップをもってこの乱をしずめたわけではありませんでした。

 

そういったこともあり、朱雀のあとの村上天皇の時代は、摂政・関白を忠平の一族から就任させるわけにはいかなくなります。その結果、村上天皇は天皇親政になりましたが、なりゆきでそうなったといってもいいかもしれません。

 

天暦の治というのが、村上天皇の親政政治を表す言葉ですが、大して世の中が動いたわけでもなく、目立ったものはというと、乾元大宝という貨幣をつくったことくらいでした。





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