律令体制の立て直しについて

律令体制の立て直しについて

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平安時代の前半は平安貴族の時代で、後半は武士と院生の時代です。このように二つに分けることのできる平安時代ですが、現在はここが古代と中世の境目とされています。さらに前半部分は3つに分けることができて、1つ目が平安遷都の時代で、8世紀終わりごろから9世紀前半まで、2つ目が藤原北家が猛威をふるう時代で、9世紀中期から10世紀中期ごろまで、そして3つ目が摂関政治の時代で、10世紀末から11世紀中期にかけてです。

 

律令体制の立て直しについて

 

後半部分は2つに分けて考えることができて、院政の開始の時代の11世紀後期〜12世紀前期と、平氏政権からその崩壊までの12世紀後期までとなります。桓武天皇とその子、平城、嵯峨天皇の時代が平安時代の初期にあたります。仏教勢力の勢いを止められなかった奈良時代ですが、それには二つの大きな理由があります。

 

ひとつは聖武天皇が仏教を崇拝しすぎてしまったこと、もうひとつは律令体制の崩壊です。強固な政治体制が保たれていれば、仏教勢力の入り込める隙は狭かったはずです。そこで、桓武天皇はまず律令体制の立て直しをはかりました。

 

その頃、地方によってはあまり朝廷の言うことをきかず、扱いづらい地域もありました。桓武天皇の狙いとしては、税金をちゃんと納めてもらうようにすることと、天皇の命令をすぐに聞いてもらえる体制を整えることなどがありました。

 

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東北地方の蝦夷というところは、あまり朝廷の命令を聞かなかったので、征夷大将軍である坂上田村麻呂を派遣して、言うことを聞かせようとしました。蝦夷征討の最高指揮官が征夷大将軍と呼ばれているのですが、こちらは令外官で、律令には記されていません。仏教勢力の他にもう一つ、桓武天皇にとって邪魔な存在がありました。

 

それは旧勢力と呼ばれている人たちで、桓武天皇を推していない貴族(律令国家の支配階級の5位以下の人々)でした。律令体制は天皇が中心の政治体制なので、その人たちが近くに居ると非常にやりにくいのです。

 

そのため784年、桓武天皇はそこから離れるために平城京から山背国(現在の京都府)の長岡京に都をうつしますが、これには反対が多く、遷都を推し進めたリーダーの藤原種継が暗殺されたりして、朝廷に混乱を招きました。この頃は律令体制を立て直すために色々と模索していた時代だったので、その10年後の794年には平安京に都をうつすなど、かなり慌ただしかったようです。





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