安和の変による源高明の左遷

安和の変による源高明の左遷

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村上天皇の次に即位したのは冷泉天皇で、このときの関白には、藤原忠平の息子の実頼が就任しました。ここで勃発するのが安和の変です。母方の身分は低かったのですが、醍醐天皇の子どもに、源高明という人がいました。彼は臣籍降下して源氏の姓を名乗っていますが、村上天皇の子どもの為平親王に、源高明の娘が嫁いでいるという関係でした。

 

安和の変による源高明の左遷

 

高明は冷泉天皇の政治に不満を持っていました。というのも、彼は摂政・関白を置かずに政治をおこなった醍醐天皇のことをとても尊敬していたので、その息子の冷泉天皇の摂政・関白政治を良く思っていなかったのです。

 

あるとき「高明は自分の娘婿である為平親王を天皇にしようと企んでいる」と、源満仲という人物が密告し、その結果、源高明は大宰府に左遷されてしまいました。源高明や、前に出てきた源信は皇族出身の貴族なのですが、源満仲は源氏、つまり武家の出身で、清和源氏の祖である源経基の子でした。

 

この安和の変が起こってからというもの、ずっと摂政・関白が置かれることになりました。これが11世紀まで続く摂関政治の幕開けで、藤原家が最も栄えていた時代に突入します。

 

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氏長者となった藤原道長・頼道

 

藤原氏が最も栄えていた時代、摂関政治の軸となった人物は、藤原道長とその子どもの頼通でした。彼らは一族の中での権力の奪い合いで勝利し、氏長者(氏族のトップ)となった者でした。この親子は、権力を持ち続けるために、天皇との外戚関係を張りめぐらせていました。

 

この頃はずっとこんな調子なので、民に目を向けた政治は全くといっていいほどおこなわれていません。道長には四人の娘がいて、それぞれ彰子、威子、嬉子、?子といいました。一条天皇に嫁いだのは彰子で、後一条天皇と後朱雀天皇をもうけました。

 

 

そのあと、威子を後一条天皇に、嬉子を後朱雀天皇に嫁がせました。三条天皇には?子を嫁がせたので、結果、四人の娘全員が天皇に嫁ぎ、一家三立后が起こります(後朱雀天皇に嫁いだ嬉子は中宮でなく女御)。

 

藤原氏による摂関政治のやり方は、天皇が子どもの間は摂政について、大人になったら関白になり、政治を支配するという方法でした。道長は、娘達が産んだ後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇(後朱雀天皇の息子)の三代の外戚となり、約30年もの政権を維持していきました。

 

 

さらに、その三代の天皇のもとで、息子の頼通は50年にもわたって摂政・関白に就任していました。





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