鎌倉幕府を開いた人である源頼朝の計画

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鎌倉時代とは、1185年から1331年までの約150年間のことを指します。鎌倉幕府が成立したのは、1185年に守護・地頭が設置されてからのことで、源頼朝が征夷大将軍になった1192年ではありません。

 

鎌倉幕府を開いた人である源頼朝の計画

 

この時代は大きく四つに分けることができて、一つ目が、1185年から1199年に頼朝が亡くなるまでの12世紀末ごろで、鎌倉幕府の成立期です。二つ目が、北条時政が初代執権となってから五代執権・時頼までの時期の13世紀前期のことを指し、執権政治の時代です。

 

三つ目が13世紀後期で、蒙古襲来から得宗専制体制に移り変わっていく時期です。四つ目が14世紀前期で、鎌倉幕府の滅亡と建武の新しい政治の時期を指します。

 

源頼朝は、1180年に以仁王の令旨を受けて源氏がこぞって平氏を追い詰めていっている時期も、鎌倉幕府の設立に向けての布石を着実にうっていました。同じ年に、御家人を統率するための機関である侍所を設置します。御家人とは単なる武士のことではありません。「御」がついている意味ですが、これは頼朝に対しての敬意を表しています。また、家人とは家来のことで、つまり、頼朝の家来の武士という意味があります。
侍所のトップを担う人として、初代には有力御家人の和田義盛に任せました。ちなみに、侍所の一番偉い人のことを別当といいます。1183年7月には天皇がいない状況になってしまいますが、これは平氏が安徳帝を連れて都落ちしてしまうからです。

 

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その3ヵ月後の10月に、寿永二年十月宣旨を後白河法皇が出すことになりますが、内容としては、源頼朝に東海道と東山道の沙汰権(管理する権利)を与えます、というものでした。それに則り、その次の年に、頼朝は公文所(東海道、東山道の政務をおこなうところ)と問注所(裁判をおこなうところ)を設立しました。

 

頼朝が征夷大将軍になる前年の1191年に、この公文所が政所となります。公の文書を扱うところ、朝廷の文書を扱うところが公文所なので、それを幕府の政治をおこなうところとしたのです。

 

これがのちのち鎌倉幕府の軸となる機関に発展していきますが、それは頼朝がみずから政権の中心的存在になる、ということでした。そして、1185年に平氏が滅亡したあとに、満を持して守護・地頭を設置したのです。

 

ちなみに全国の御家人のまとめ役が侍所ですが、国内の御家人のまとめ役が守護で、各国にそれぞれ一人ずつ配属されました。対して、荘園、公領の管理をする人のことを地頭とよびます。これを通じて、頼朝は政治基盤と財政基盤をしっかりと打ち立てることに尽力したのです。





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