岩倉使節団のメンバーとは?
ツイート明治時代は五つに分けて見ていきましょう。まずはじめは、1868年から1875年までの明治維新の時期。二番目は、1876年の不平士族の反乱から1885年の内閣制度創設前までの、自由民権運動の時期。三番目は、1885年から1906年の桂園時代スタートまでを指し、内閣制度の創設から初期議会の時期。四番目は、日清戦争に行き着く流れの、1875年に起きた江華島事件から1895年に成立する下関条約まで。
そして最後は日露戦争の時代で、1895年の三国干渉から日露戦争をへて、1912年に明治時代が終わるまでです。明治新政府は、1868年に三つの政治方針を提言します。一つ目は、基本方針である五箇条の誓文。天皇の親政、公儀世論の尊重、開国和親などが含まれています。
二つ目は、人民に対しての統制のガイドラインを書いたもので、一揆やキリスト教の禁止などで、五榜の掲示とよばれるものです。三つ目は、新しい政治体制を示したもので、政体書の発布です。特筆する点としては、三権分立の導入や、新設された太政官に国家権力を集中させることなどです。
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まず、1868年から1873年までは、維新をおこなっていくための色々な体制基盤を築いていった時代で、明治政府の重要なことは、すべてこの時期におこなわれたといっても過言ではありません。
なかでも重要になってくるのは、版籍奉還(諸藩主が土地〔版図〕と人民〔戸籍〕を返上)、廃藩置県(藩をなくして県を置く)といったことで、こうした明治時代の最も基本となることのベースになるものを1871年までにおこない、地租改正(土地制度、課税制度の変革)、徴兵令(満二十歳以上の男子の兵役)というようなそれぞれの政策を、1873年までにあらかた終わらせてしまいます。
1871年に岩倉具視が中心となって欧米に条約改正のために向かった岩倉使節団は、条約改正は今すぐには難しいということがわかったため、結局、欧米視察というかたちになります。この使節団には、当時の政府の首脳陣のほとんどが参加していて、伊藤博文、木戸孝允、大久保利通らもいました。いなかったのは、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らで、彼らは留守政府といわれました。そして、ここで征韓論というものが生まれてきます。
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