江華島事件とは?

江華島事件とは?

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日清戦争を見ていく前に、ざっと当時の朝鮮半島の情勢について説明していきましょう。1870年代前半に一旦時代は戻りますが、この頃は西郷隆盛らによる征韓論がありましたね。その後、江華島事件が1875年に発生しています。

 

江華島事件の場所や日朝修好条規とは?

 

いまの韓国・仁川の近くに江華島という島があるのですが、ここで日本の軍艦である「雲陽」が威嚇行為をしました。その挑発に乗り、朝鮮側が発砲してきたので、それを口実に、半ば強引に日朝修好条規を結ばせました。

 

その内容を説明します。当時、朝鮮も基本的には鎖国政策をとっていたのですが、朝鮮の開国を求めました(朝鮮通信使は例外的な行事です)。なので、日本と朝鮮は、明治時代になっても全く付き合いがなかったのですが、それを開国させて繋がりを持ちました。

 

次に、無関税特権といって、関税自主権がないと表現するよりは、日本からの輸出品には一切関税をかけないというものがありました。さらに、領事裁判権を日本側が持つなど、日本側にとって都合がいいものばかりを盛り込んだ不平等な条約を結びました。

 

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壬午事変について

 

その頃の朝鮮(李氏朝鮮)は、清の属国のような状態で、冊封体制というものをとっていました。清が宗主国で、要するに親分だったわけです。しかし、1880年頃には、李朝内部でこんなことがささやかれはじめました。

 

「最近、日本が勢力を伸ばしてきた。しかも、清は欧米に上海や広東に租界や租借地を持たれているが、日本にはそういうものがない。だから、これからは清より日本についていくべきではないか」

 

 

そして、朝鮮政府の内部で派閥が生まれてきます。それぞれ親日派の閔妃、親清派の大院君です。国王・高宗の父親が大院君で、閔妃は国王の妃でした。1882年に大院君の一派が反乱を起こして、閔妃派の政治家や政治顧問をしていた日本人などを襲い、日本公使館に火をつけたりもしました。これを壬午事件、または壬午軍乱とよびます。

 

焼き討ちそのものは大した被害ではなかったのですが、日本はこれに対してとても高圧的な態度に出て、済物浦条約を事後処理のために締結させて、多額の見舞金や損害賠償を求めました。この事変があったことで、閔妃は親日派ではなくなりました。





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