日露戦争の賠償金と明治四十年恐慌(戦後恐慌)について

日露戦争の賠償金と明治四十年恐慌

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日露戦争が終了したあと、1907年(明治40年)に戦後恐慌というものが起こります。これは、明治四十年恐慌ともよばれていて、戦争で多額のお金を使ったのに、賠償金が全くとれなかったことから起こりました。

 

日露戦争の賠償金と明治四十年恐慌(戦後恐慌)について

 

ここで少し、時代を前に戻しましょう。明治維新が起こったあと、1880年代後半に、日本で第一次産業革命が起こり、鉄道業と紡績業が中心の好景気が巻き起こり、企業勃興といって、株式会社の設立が流行りました。

 

しかし、会社というもの自体をちゃんと理解していなかった人も多かったため、どんどんつぶれてしまい、1890年に日本で初めての恐慌(1890年恐慌)が起こってしまいます。この恐慌は、5年後の日清戦争の賠償金でなんとかなりました。

 

日清戦争のときにどれくらいの賠償金がとれたかというと、二億両と遼東半島還付金の三千万両、合わせて二億三千万両(約三億六千万円)で、これはその頃の全国の会社の時価総額以上の金額でした。

 

それを使用して、前からやりたいと思っていた金本位制を導入したり、造船奨励法、航海奨励法によって、造船業、航海業を推進していきました。

 

 

また、いろいろな特殊銀行が設立され、積極的に融資がおこなわれました。たとえば、地域銀行などもつくられました。各地の農工銀行などがそれです。日本勧業銀行や日本興行銀行などの政府系金融機関もつくられました。そこが民衆に融資することで日本の産業は育ち、発展していったのです。

 

しかし、日露戦争では、まったく賠償金がとれなかったので、国内の景気がダウンしました。すると、日清戦争の賠償金を使って融資した会社がつぶれるなどして、貸したお金の回収が困難になったりします。そうしたいろいろな原因があって、1907年に恐慌・不況が起こってしまったのです。





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