総理大臣は誰が決めるのか?
ツイート議会が与野党逆転していたなら、一体総理大臣はどうやって決めていたのでしょうか。現在でも、内閣総理大臣は天皇が任命しています。ただ、任命する人が同じでも、その頃と今は根拠が違います。
その頃の内閣総理大臣は、元老の推薦によって決定されていました。このやり方は、太平洋戦争の前くらいまで続いていたのですが、元老とはいったいどんな人たちなのでしょうか。明治維新で功績を残した人たちのことを元勲といい、その人たちが維新後の新政府を担ってきました。「天皇の相談相手として」という建前のもと、明治はじめごろの国づくりに貢献した人も一緒にして、元老政治家、略して元老というようになったそうです。法的な根拠は特にありません。
具体的には誰かというと、たとえば伊藤博文、黒田清隆、山県有朋、松方正義、井上馨、日清戦争でのちに活躍する大山巌、ほかには桂太郎、西園寺公望などがいます。井上馨と大山巌以外はみな明治時代に内閣総理大臣を経験しています。のみ公家で、ほかはみな薩摩か長州の出身者です。
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天皇に対して、この元老たちが「この人を総理大臣にしてください」と推薦し、明治天皇がそのままその人を内閣総理大臣に任命していただけなので、薩長が総理大臣を決めていたのと同じです。
それだけでなく、各閣僚は内閣総理大臣が決めるので、その頃の行政府は、ずっと薩長が握っているといっても過言ではありませんでした。さらに、地方はどうなっていたかというと、県令(いまの県知事)も薩長が中心で、どの地域をみてもその土地とは全く関係のない薩長の出身者が県令になっていました。
薩長が官僚の任命権をほぼ握っていた状態だったので、平安時代に国司を牛耳っていた藤原氏と何ら変わりがありませんね。こういった薩長閥が専制している政治のことを、有司専制とよびます。これにはかなりの反発があったため、民党が総選挙で過半数を握ることになったのです。この時代には、民党vs.内閣・藩閥という構図が存在していたことを覚えておいてください。
蛮勇演説・解散について
そこで、第一回の帝国議会では、最大の争点であった予算案を通すために、政府はどんなことを試みたのでしょうか?なんと、立憲自由党のなかには、多くの土佐派とよばれる派閥がいたのですが、彼らをお金で買収することによって、自分たちが思うとおりに動かせるようにしてしまったのです。
その次の松方正義内閣でも、再び民党と吏党の対立が起きますが、立憲自由党の土佐派は、以前に買収されたことできびしい批判を受けたため、今回は買収に応じません。そこで、議会での対立が激しくなるのですが、このとき、薩摩出身の海軍大臣・樺山資紀が、民党に対してこんなことを発言しました。
「あなたたちは薩長政府がどうのと反発しているが、日本が今ここまで立派な国になれたのは誰のおかげなのだ」
つまり、日本がここまでこれたのは薩摩・長州のお陰だから、薩長の言うことを黙って聞け、ということを言ったのです。これは蛮勇演説とよばれていますが、そんな直接的なことを言ったために、国会はますます紛糾してしまい、結果的に衆議院は解散するはめになりました。この頃、立憲自由党は自由党に名称を改めました。
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