日本初の政党内閣である第一次大隈内閣

第一次大隈内閣について

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日清戦争がはじまることで、それまで藩閥政府に反発していた民党の態度は百八十度変わります。民党のおかげで戦争に敗北したりしたらとんでもないことなので、ここではじめて、すべての予算案が可決されました。

 

日本初の政党内閣である第一次大隈内閣

 

伊藤も、このあたりでそろそろ折り合いをつけておかないと、民党とはずっと平行線のままだということが分かってきていたので、民党を抱き込もうとします。板垣退助を1896年に内務大臣として入閣させます。地方と警察を握っている官庁が内務省なので、警察権力を相手方に渡したということになります。これはとてもすごいことだったので、自由党は完全に伊藤の言うことを聞くようになりました。

 

そのあと、二度目の松方内閣になるわけですが、ここでは大隈重信を外務大臣に就任させ、進歩等(旧立憲改進党)とも手を組みます。その次が、第三次伊藤博文内閣で、1898年1月に発足しました。第二次内閣時だった1893年には、文官任用令をつくって、高級官吏や大臣に政党の人間を就任できるようにしておいたので、伊藤もこの頃には民党対策に自信を持っていました。

 

なので、今まで民党が反対していたおかげでできなかった地租増徴を実施しようと思い、いくつかの閣僚のポストを空けておき、自由党と進歩党を抱き込もうと考えます。土地にかける税金の税率を上げることを地租増徴といいますが、さすがにこれには自由党も進歩党も反対します。

 

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その頃の選挙権は、直接国税を十五円以上納めている男性にのみ与えられています。つまり、民党の支持者は高額納税者で、ほとんどの人が広大な土地の所有者なので、大地主です。その人たちに大きな負担がかかる増税はさせるわけにはいかないので、賛成はできません。

 

そのため、地租増徴を阻止すべく、自由党と進歩党は1898年に一緒になってしまいます。それでできたのが憲政党です。こうなってしまうと、伊藤はどうにもできません。どうにもできないので、内閣を投げ出してしまったのですが、民党の勢いを止められる人間はほかにいませんでした。その状況を見た元老は、「それなら憲政党に内閣をやらせたらどうか」と提案します。

 

こうして、日本最初の政党内閣・大隈重信内閣が1898年6月に誕生します。この内閣は隈板内閣ともよばれており、旧進歩党・大隈と旧自民党・板垣退助の二人がトップになったところからきています。

 

 

4か月で退陣することに

 

憲政党というのは、土地の税金を増やさないためにつくられた党で、それしか考えていませんでした。今までなぜ自由党と進歩党に分かれていたかというと、それは二つの党はまったく違う意見を持っていたからです。

 

なので、それが与党になると、党内部での意見の違いが表面化するのは当然です。結局、内部で対立が起き、政権の運営がうまくいかなくなりました。その上、ここで共和演説事件というものが勃発します。そのときの文部大臣であった尾崎行雄がこういうことを言ったのです。

 

「もし日本で共和政治がおこなわれたとしたら、三井・三菱が大統領候補になるに違いない」

 

 

この発言は金権政治を批判したため述べられたものだったのですが、天皇がいないことを前提とした政体が共和政治なので、不敬の発言だということで問題を引き起こしたのです。なので、尾崎は文部大臣を辞職することで責任をとりました。

 

その次の文部大臣を誰にするかで、旧自由党と旧進歩党が激しく対立し、憲政党は分裂してしまいました。そのため、大隈内閣はたった4か月で終わりを迎えることとなります。





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