伊藤博文による立憲政友会の誕生

立憲政友会の設立について

このエントリーをはてなブックマークに追加  

藩閥政府の中でも、派閥というものは存在していて、伊藤博文を軸とした派閥と、山県有朋を軸とした派閥に分かれていました。二人とも長州閥ですが、性格が違っていたのでしょう。山県が握っていたのは官僚と陸軍で、どちらかというと官僚主導的な性格をもっています。それに対して、政治主導だったのが伊藤で、意見が合わないところもありました。

 

伊藤博文による立憲政友会の誕生

 

民党対策に関しても違っていて、山県は超然主義を徹底していましたが、伊藤はもともと相手と折り合いをつけることで自分のやりたい事や意見を確実に通そうとするタイプで、実際、日清戦争以降に、自由党や進歩党を抱き込んでいったのも伊藤閥の人たちでした。

 

最初は憲政党も山県内閣を支持していたのですが、山県が憲政党を全く無視して政策を進めてしまっていたので、だんだん山県に対して不満を持つ人も出てきました。伊藤は山県のことが好きではなかったので、山県に反発していた政党と手を組み、立憲政友会というものを新しくつくりました。この結果、立憲政友会の第四次伊藤博文内閣が1900年10月に発足されたのです。

 

スポンサーリンク

 

桂園時代が始まる

 

しかし、この内閣には貴族院が反発をします。多額納税者が在籍している貴族院議員ですが、多くが勅撰議員といって、天皇に任命されて就任している人たちでした。逆に言えば、天皇が任命するということは、薩長の人間が、国会議員になりたくて天皇にお願いして任命してもらった、ということです。

 

この内閣は結局すぐにつぶれてしまったのですが、貴族院の支持が得られなかったことが大きな理由です。そのとき、自分の後継者として伊藤は西園寺公望を指名します。ちなみに西園寺は公家なので、貴族院とも関わり合いが深い人間です。

 

 

このあと、桂太郎と西園寺公望が総理大臣に交互に就任することになります。それぞれ桂が三回で、西園寺が二回でしたが、そこからとってこの時代のことを桂園時代とも呼びます。 長州藩出身で、陸軍、官僚閥だった桂太郎は、山県の子分といえます。

 

対して、伊藤の子分は西園寺です。要するに、伊藤と山県の争いが、自分の子分にも発展していた段階といえるでしょう。代理戦争のようなものです。





このエントリーをはてなブックマークに追加