聖武天皇が大仏を作った理由とは?
ツイート聖武天皇は714年に国ごとに国分寺を建設するよう命令し、さらに743年に鎮護国家思想を推し進めるために、大仏造立の発願をします。このことから、聖武天皇はどんどん宗教にのめりこんでいくのがわかります。
この時代の仏教は鎮護仏教だったので、われわれが考えるようなものとはまた違ったものでした。仏教の教えを探求することによって、日本という国の支配の方法や国を平和にするための方法を考えていこうとしたのは、奈良時代の教理の研究団体である仏教六学派の南都六宗でした。
国の支配の方法は国家機密で、それが国民に分かってしまうのはまずいと考えられていたので、いろいろな場所をまわって橋をつくったり、布教活動を行っていた渡来系の僧・行基は、はじめの頃かなりひどく押さえつけられていました。南都六宗では布教が禁止されていたのです。
国は寺を二つに分けて国家が管理し、教理が外部に分からないように隠そうとしました。蘇我氏は飛鳥寺、秦氏は太秦寺(広隆寺)といったように、一族の氏寺がつくられていたのは飛鳥時代で、大化の改新以前のはなしですが、それぞれの豪族が仏教を信仰していました。それがうってかわって、大化の改新後は寺院が官寺の制によって官立化されていきました。
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国家鎮護のために総国分寺である奈良の東大寺にも大仏が建立されました。それはけっして信仰を広めるためではありませんでした。しかし、749年、聖武天皇は天皇をみずから辞め、孝謙天皇として娘である阿倍内親王にその地位を譲ります。宗教にすがっても、不安な気持ちを拭い去ることはできなかったのでしょう。
苦難の末、中国から招いていた鑑真が日本を訪れ、754年にはいろいろな人が受戒しました。聖武上皇(譲位後は上皇となりました)や孝謙天皇、光明皇太后、得度した僧侶や高級貴族などがそうです。得度をすると僧になることはできるのですが、ステージをあげるにはその後受戒することが必要だったのです。
律令体制は、税金を徴収するかわりにみんなに土地を分け与えますよ、という制度というのは前に説明したとおりですが、これが奈良時代の中期ごろに崩れてきてしまいます。これがさらに時代が混乱してしまうきっかけでした。国家権力が失われると、土地を分け与えるための班田がうまくいかなくなり、税の徴収もしにくくなってしまいます。
そこで、政府は、開墾した土地を期限つきで私有していいですよ、という法律を定めることで、墾田(開墾した土地)を増やしていこうと思い、長屋王政権の723年に三世一身法を制定するのですが、墾田は思ったより増えなかったので、743年の聖武天皇の時代に墾田永年私財の法が発表され、墾田を永久的に私有していいですよ、と法律が変わることになります。
その頃の墾田は増えたら増えたで輸租田という税がかかっていたので、仮にそこが私有地であっても、税収は増えていたのです。聖武天皇の恐怖心や不安、律令体制の崩壊などが仏教勢力の増長に拍車をかけてしまいます。なんとかしなければ、という焦りから仏教にのめりこんでしまった結果でしょう。これがこの先、道鏡という人物の登場につながっていくこととなります。
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