塘沽停戦協定とは?

塘沽停戦協定とは?

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中華民国とのあいだで1933年5月に塘沽停戦協定をむすんだことで、満州事変はとりあえず一段落つきました。満州の権益は日本が持つかわりに、それ以外の権益については日本は手を出さないということで、中国政府を納得させて、一旦停戦となるわけですが、関東軍はそのまま満州に居つづけ、日本人の役人による官吏・経営をはじめます。

 

塘沽停戦協定とは?

 

満州事変が起きたあと、中国政府と日本政府はずっと犬猿の仲だと思っている人が多いのですが、実際は一旦手を結んでいます。ではどうして中国とのあいだで停戦協定がむずばれたのでしょうか?

 

じつは、中国国内で毛沢東の中国共産党と蒋介石の国民政府があって、それぞれ対立していました。最初は協力関係にありましたが(第一次国共合作)、この時期は対立が激しくなっていました。

 

そこで蒋介石の国民政府は、日本と手を組むことで、日本の軍事力を味方につけることで共産党勢力と戦っていこうと考えました。実際、その時の日本にはコミンテルン(国際共産党)を阻止しようという考えもあったので、利害が一致したということです。

 

 

もう一つの理由は、満州の権益を求めようとすると日本との争いは避けられないので、満州のみの権益より、中国全土のほうを優先させようという考え方もあったのでしょう。日本が満州を支配したあと、1935年に、満州と中国の国道沿いに冀東地区防共自治政府という非武装地帯をつくりました。「防共」というのは共産主義を防ぐという意味で、共産党を止めるための非武装地帯です。

 

国民政府にしてみると、こちらを気にすることなく、共産党との争いに全力を注ぐことができ、日本にとっても、満州経営が落ち着くまでは、そのほうが都合がよかったということです。





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