柳条湖事件から満州事変へ
ツイート中国東北部で、1931年に満州事変が起こります。そのきっかけとなったのは柳条湖事件で、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破するのですが、それを中国軍がやったことにして、それを口実に軍事行動を起こし、最終的に満州事変につなげていったのです。
その頃、「世界最終戦論」という本を書いた石原莞爾は、関東軍の参謀でしたが、第二次世界大戦を予想していたのかしていなかったのかはわかりませんが、最終的に大きな戦争が起こるだろうということを予測していたようです。
欧州陣営とアジア陣営の二つに陣営が分かれ、欧州陣営ではアメリカが、アジア陣営では日本が、それぞれの覇者となっていき、そして、欧州陣営とアジア陣営が最終戦争をおこない、世界の覇者が決定するだろう、というのが世界最終戦論の内容です。そこで勝利をつかむためには、日本にとって満州の権益は欠かせないものであるということです。
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実際に、たとえば日露戦争のあと、アメリカはハリマン計画(アメリカの鉄道王ハリマンが長春〜大連間の鉄道を日本政府から買い取って共同経営をする計画)や、国務長官ノックスの満鉄中立化提案などで、満州の権益にこだわりをみせてきました。なぜかというと、アメリカが中国分割に遅れをとっていたからです。
中国分割は1890年代後半におこなわれていましたが、アメリカが遅れをとった理由としては、その時期、アメリカはハワイの併合やフィリピンの領有などに忙しかったからです。それで、1899年に、「アメリカも中国分割に参加させろ」ということを言い出します。アメリカの国務長官であったジョン・ヘイが、「門戸解放・機会均等」を訴えかけたのです。
そこまで満州を重要視していなかったアメリカですが、関東軍としては、もしアメリカが割り込んできたとしたら大変なことなので、しきりに「満蒙の危機」を叫んで、なんとしてでも満州の権益を守っていこうと考え、満州事変を起こしたわけです。
柳条湖事件の報告を若槻内閣が受けたとき、軍部が突っ走らないように、不拡大方針を発表しますが、危機をあおることで国民の支持を受けていた軍部は、内閣のいうことを無視して戦況を広げていきました。
三月事件に続き、1931年に、十月事件が勃発します。満州事件に対して政府が不拡大方針をとろうとするので、政党内閣を倒して、軍部内閣をつくっていこうとする計画でした。これも失敗には終わるのですが、軍部の独走を抑えきれないと悟った若槻内閣は、総辞職する道を選びます。
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