ポツダム宣言受諾により無条件降伏へ

ポツダム宣言受諾により無条件降伏へ

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東条内閣が退陣したあとは、小磯国昭内閣が誕生しました。この頃になると、日本本土へ米軍機が空襲しにくるようになります。絶対国防圏が侵されてしまったとなっては、もうどうにもなりません。

 

ポツダム宣言受諾により無条件降伏へ

 

米軍の空襲は、軍需施設の破壊を目的としていました。しかし、都市部になると、一般住宅まで無差別に攻撃を受けることになります。いろいろなところに防空壕がつくられ、児童たちは地方に学童疎開したりもしました。

 

1944年3月に起こった東京大空襲では、一晩で十万人もの人々の命が奪われ、そのあとも全国各地が空襲によってひどい被害に見舞われます。物量で圧倒的に勝っているアメリカの攻撃はさらに激しさを増し、硫黄島を占領したあと、1945年4月には沖縄本島にまで上陸してきました。

 

日本国内では本土決戦が叫ばれていましたが、アメリカやイギリス、ソ連、中華民国は勝利を確信していたので、終戦後のアジアをどうするかについて、時々首脳会議を開いたりしていました。

 

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たとえば、1943年のカイロ宣言では、日本が第一次世界大戦のあとに中国から奪った土地を全部返すことが決められました。1945年のヤルタ会議では、秘密裏にソ連の対日参戦も進められていました。

 

そしてドイツのポツダムで、1945年7月に、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長の三人が会議をおこない、日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言を採択しています。この時期には、イタリアが1943年に、ナチス・ドイツも1945年5月に降伏しています。

 

 

しかし、相変わらず日本の陸軍などは本土決戦を叫んでいて、ポツダム宣言をはねのけていました。戦争をやめてしまうと、陸軍に責任を問われますので、やめたくてもやめられなかったというのが本当のところなのかもしれません。

 

そんなことをしてるうちに、8月6日に広島へ、9日に長崎へ原子爆弾が投下されてしまうわけです。その隙間をぬうようにして、8月8日にソ連が日ソ中立条約を勝手に破棄して、対日参戦をしてきたのです。

 

 

二発の原爆投下、ソ連参戦によって、どうにもならなくなった日本は、8月14日にとうとうポツダム宣言を受諾し、15年におよぶ戦争がやっと終結しました。終戦の詔勅が出たのは、本当は8月15日ではなく、14日だったのですが、翌8月15日正午に天皇の玉音放送を通じて告げられたので、この時国民もようやく日本が負けたことを知ったのでした。





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