田沼意次が株仲間を作った目的とは?
ツイート当時はお米が税金の役割をしていた時代だったので、お米をつくっていない人はどうしていたかというと、地子銭(宅地税)や運上(営業税)が多少かかってくるくらいで、基本的に無税でした。
商人というのは、どれくらい儲けているかは外からはわかりません。内々で話し合って取引しているので、確定申告や法人税がなければ、儲けは見えないままなのです。なので、家の間口の広さによって税をどれくらい取るか決める方法もありましたが、京都の町家はそれに抵抗し、間口は狭いのに奥行きが長細いという変な家のつくりにして、税金対策をしました。
このように、税金を商人から徴収するのは、とても難しいことなのです。そこで、商人たちがすすんでお金を納めてくれる方法は何かないかと考え、思いついたのが、吉宗政権下で公認された株仲間でした。株というのは組合で、仲間というのは同業者ということなので、意味としては、同業者組合のことです。
スポンサーリンク
株仲間という同業者組合に入ることで、商売をする上での特権が与えられます。この場合は、独占販売権でした。「独占販売権をあげるかわりに、お金をちょうだい」ということで、株仲間は幕府に、運上、冥加という営業税を支払うことになしました。
商売人としては、独占権は喉から手が出るほど欲しいものです。それがあれば儲かるし、もし他の人に渡ってしまえば自分の商品が売れなくなります。いやいや税金を払っていた農民たちとは大違いで、商人たちは、我先にとお金を払いました。
そうなると、商人たちは、自分を優遇してほしいということで、運上や冥加以外のお金を、田沼や政府の有力者に渡すようになり、賄賂が横行します。袖の下と呼ばれるものですね。これには、こんな話があります。
田沼のもとに、ある日棺桶くらいの大きな箱が送られてきて、おもてに「京人形一対」と書いてありました。どんなに大きな人形なのかと中を見てみると、その頃吉原で一番人気があった生身の遊女がそこから出てきました。というように、こんな賄賂もあったほどです。なので、「田沼政治=賄賂」というイメージができあがってしまったのでしょう。
あわせて読みたい記事
ツイート