田沼意次の政治について

田沼意次の政治について

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結局、お米ばかり集めていた徳川吉宗の改革は失敗に終わります。その子の家重が八代・吉宗のあとを継ぎましたが、病弱だったために、政治に集中することができず、側近が側用人として政務をとることになりました。家重自身は、父親の政策の路線を保とうと思っていました。

 

田沼意次の政治について

 

旗本出身の田沼意次が、側用人から確実に政権を握っていきました。家重の次の十代・家治が将軍に就任した際、老中に出世し、完全に政権をつかみました。田沼の政治を悪く言う人は多いのですが、彼は吉宗の問題点を踏まえた上で政治をおこなっていたので、非常に考えて政務をとっていたと思います。

 

農民からお米を集めることに必死になっていた吉宗ですが、これには問題が二つあります。一つ目は、お米を集めすぎて米価が下落したこと。結局実質的な価値は下がってしまいました。二つ目は、農民は基本的にあまり裕福ではないので、徴収できるお米の量には限界があるということです。

 

その頃の農民は、自分がお米をつくっているのに、白米も食べられない状況で、非常に苦しい生活をしていました。そんな人からいくら巻き上げようとしても、税金を倍にすることなど絶対に無理です。

 

定免法に変えて、五公五民にしても、一度飢饉が起きてしまうとどうにもなりません。そこで田沼は着眼点を変えて、貧乏な農民からお米を徴収するのではなく、裕福な商人からお金を集めようとしました





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