ペリー来航の目的とは何か?
ツイート黒船、いわゆるペリーが来航したのは、1853年のことです。東京湾の入り口、浦賀(いまの神奈川県)にアメリカの軍艦四隻がやってきたのですが、この来航の目的は何だったのでしょうか。
1853年、もともとメキシコの領土だったカリフォルニアをアメリカが奪いました。いままで西にずっと進攻し続けていたアメリカでしたが、これでやっと、西海岸に着くことができたのです。
次に、何をしようとするかというと、太平洋の先にある中国、つまり清との貿易を視野に入れるようになります。ほかには、捕鯨のことを考えるようになります。いまでこそ、日本がさんざん非難されていますが、その頃鯨をもっとも多く捕っていたのはアメリカです。鯨はたくさんの油脂分を持っていたので、それを目的に捕獲していました。そのため、捕鯨船団の寄港地を探していて、アメリカが目をつけたのが、日本でした。
なので、どちらかというと、日本とは貿易を盛んにおこなおうとするより、捕鯨船の寄港地としての役割がメインでした。このとき、司令官のペリーはフィルモア大統領の国書を持ってきていて、それを日本の将軍に渡すことを請け負っていました。ちなみに国書は、一度受け取ってしまうと、相手の要求をのんだことになってしまうのです。
この場合では、相手の言っていることを受け入れて、話し合いのテーブルにつきます、という意思表示になるのです。なので、本当は国書はそうやすやすと受け取るべきものではないのですが、ペリーがあまりにも高圧的だったため、国書をつい受け取ってしまったのです。幕府側も、そのあたりの国際的な慣習については、疎い部分があったのでしょう。
国書を渡したペリーは、一年後に答えを聞きにくると言い残してアメリカに去っていきますが、問題はこのあとでした。
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幕府の威信が失墜する
その頃の老中は、阿部正弘という人でしたが、この人がとんでもないことをしでかしたせいで、幕府崩壊にいたる最大の原因をつくってしまいました。ペリーが来たことを、阿部は朝廷に報告しました。ほかにも、諸大名、幕臣、旗本や御家人たちにも、このことについての対応をどうしたらいいか意見を言わせました。外様大名にまで、意見を聞く始末でした。おそらく責任逃れだったのでしょうが、そういったことをしてしまいました。
なぜ、江戸幕府が長続きしたかというと、幕藩体制のおかげで、つまり、幕府のやることには、朝廷や藩、幕臣などはいっさい口を出さないという体制だったからです。それを老中みずからが崩すようなことをしてしまい、今までの体制が変わってしまいました。
阿部正弘にとっては、あまりにも大きな事柄だったので、自分ひとりで抱えきれず、自分で責任をもって結論を下せるような事態ではなかったのでしょうが、幕府の政治に対して、朝廷や幕臣、諸藩が口出しできるようなベースをつくってしまったのもまた事実です。
十二代将軍・徳川家慶が死去したのはペリー来航の直後で、将軍は家定に代替わりしていました。家定は基本的に老中である阿部正弘に頼りっぱなしで、自分自身で決断をしない性格でしたので、その重荷もあったのかもしれません。
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