江戸幕府による幕藩体制の確立と大名統制

幕藩体制の確立と大名統制

このエントリーをはてなブックマークに追加  

江戸幕府が長続きした理由で大きなものは、鎖国と幕藩体制の確立です。江戸幕府といえども、支配していたのは、前に書いた幕領(天領)四百万石、それと旗本知行地三百万石の合計七百万石でしたので、日本中のすべてを支配していたわけではありません。その他の領土は大名のものであり、大名自身が支配していました。そこで税率をいくらにするかも諸藩が決めることでした。

 

江戸幕府による幕藩体制の確立と大名統制

 

これは、幕府と藩はお互いに一切口出しをしない、ということです。つまり、幕府は藩のやることに何も言いません。その逆も然りです。幕府の官職である老中や若年寄になれば、政治にからめないことはないのですが、それらは交代制でしたので、ある程度の権限しかもてません。

 

とにかく、政治上の権限を諸大名には一切与えないかわりに、藩はアメリカ州以上の“独立国家“として存在している、ということなのです。こうして、大名を幕府が統制することによって、直接ではないですが、全国を間接的に支配していたわけです。

 

大名統制のために、家光も武家諸法度を発令しています。その中でも重要なものの一つは、五百石を超える船の建造を禁止したことで、これが、家光の鎖国政策につながっていきました。外国まで行けてしまうような大きな船を、大名たちに造らせなかったわけです。

スポンサーリンク

 

参勤交代制度を確立したことが、二つ目です。大名たちには1年ごとに地元と江戸の往復を義務づけ、妻子は江戸に住まわせました。前に少しふれましたが、この時使う費用はすべて、大名が支払います。

 

藩のおとりつぶし(改易)というものが、よく時代劇に登場しますよね。これは、家光の時代だけではありませんが、武家諸法度に違反した大名に与えられる罰で、改易のほかに、転封、減封があります。これらは法令に違反したかどうかで処分が決まります。

 

一つ覚えておいてほしいのが、例えば武家諸法度は大名に対してのみ出された法令ですが、このように、明治の前にできた法令のなかに、すべての国民を対象に出されたものは一つもありません

 

 

もちろん、大名も将軍の家来の一人ということに変わりはありませんから、家来として守るべき規則があり、それに違反した者には罰が与えられました。ただし、大名は幕府の家来としての心得さえきっちり守っていれば何も言われませんでした。藩のことについては幕府には関係がないので、極端な話、大名が自分の土地でめちゃくちゃな政治をおこなっていようが、それで罰せられることはありません。

 

きちんと勤務さえしていれば、会社員が家で何をしていようと会社からは何も言われない、というのと同じことですね。前にこの頃のことを武断政治と説明したと思いますが、これはつまり、幕府の言いつけを守らない大名にはきびしく罰を与え、どんどんつぶしていくというやり方のことです。

 

 

例をあげると、二代将軍・秀忠のときに、関ヶ原の戦いにおいて勝利に大きく関わった一人、福島正則を、武家諸法度に違反したとして改易の罰を与えています。家光の時代では、熊本藩主であった加藤忠広を改易に処しています。

 

ちなみに加藤忠広は、関ヶ原でもよく働いた一人、加藤清正の息子なのです。武断政治というものは、徳川幕府にどれだけ貢献したかでは処遇に差はありません。幕府のやり方に反するものはどんどん消していくという、恐怖政治のようなところがありました。





このエントリーをはてなブックマークに追加