牢人の発生と由井正雪の乱について

牢人の発生と由井正雪の乱について

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ちょうど17世紀の真ん中の1651年に、三代将軍である家光が死去します。 初代・二代は将軍職を自分が生きているうちに子どもに譲り、大御所として背後から政務をとっていました。息子を一人前の将軍にしていくためにも、父親はそのサポートにまわっていたのですが、家光は病気で急に死んでしまったため、子どもの家綱はまだ十一歳のときに将軍に就任したのですが、大御所がいないという状況でした。

 

牢人の発生と由井正雪の乱について

 

そこで、家綱の補佐にまわったのが保科正之です。今までは完全に将軍親政だったところが、そうでなくなったわけです。保科は家綱の叔父にあたる人物で、会津二十三万石の大名です。二代・秀忠の子ですが、母親の方の身分が低く、徳川や松平の姓を名乗ることができませんでした。なので、養子になった保科の姓を名乗っていました。

 

仕事がなくなった武士のことを牢人といいますが、この時代は十万人ほどの牢人がいたといわれています。それは、徹底した武断政治の結果でした。ちなみに、「浪人」と書くこともあるのですが、こちらは「浮浪人」という意味が強くなりますので、教科書などでは「牢人」の文字を使います。

 

大名家が改易でとりつぶしになった時は、多くの大名は切腹、家臣のなかには後を追って殉死(追腹)する人もいましたが、失業して路頭に迷う人がたくさんいました。藩士はあくまでも大名の家来なので、失業してしまった武士、牢人のことは幕府はほったらかしで、保護処置などはありませんでした。

 

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由井正雪の乱の波紋とは?

 

ここで、由井正雪という兵学者が登場します。彼はいわゆる軍事評論家で、こんなことを考えていました。「幕府に対して不満を持っている牢人が十万人もいるということは、彼らを組織して反乱を起こせば、幕府の骨組みを揺さぶることができるのではないか」そういった考えをもって起こしたのが、1651年の慶安の変、別名由井正雪の乱です。

 

結局、この乱は鎮圧されてしまいます。評論家が頭の中でのみ考えたことがうまくいくはずもありません。しかし、幕府側としては、自分たちに不満を持つ牢人が非常にたくさんいるということに、危機感を抱くようになります。

 

そこで、それまでの武断政治を見直し、文治政治へと移り変わっていくわけです。まだ幼かった四代将軍の家綱を補佐し、大人になってからもサポート役をつとめた保科正之が中心になって、文治政治をつくりあげていくことになります。





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