保科正之による末期養子の禁の緩和

保科正之による末期養子の禁の緩和

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文治政治の政策の一つが、末期養子の禁の緩和です。死ぬ直前に養子をむかえることを、末期養子といいます。この頃は江戸幕府ができてから50年たっていたので、幕府に逆らうような大名はほとんどいなくなっていました。牢人が氾濫したことの大きな原因は改易に変わりはないのですが、それがすべてというわけではありません。

 

保科正之による末期養子の禁の緩和

 

原因の一つといわれているのが、末期養子を禁じていたからです。たとえば、後継ぎがいない大名が死ぬ間際、急いで養子を連れてくる、というような事例は禁止されていました。幕府の考えとしては、大名が死にかけのときに、養子など本人の意思で決められるはずがないので、自分の意思でない養子は認められない、といったものでした。

 

馬から落ちて死んでしまったり、脳溢血や心筋梗塞などで急にこの世を去ってしまった場合、その時にすでに養子が決まっている状態でなければ、その家は改易になってしまうのです。同時に、そこの家臣たちは全員牢人になってしまうというシステムでした。

 

幕府に届け出をしなければ、養子というものは認められません。一旦決めてしまうと変えるのは難しいし、養子をとらない場合、自分にまだ子どもがいなかったり、女の子だったりすると困るのです。

 

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急に自分が死んだときのために、家をつぶさないように養子をとるところもあったのですが、養子を後継ぎとして決定して幕府に報告を済ませた場合、そのあとで自分の子どもが生まれても、実子を後継ぎにすることは難しくなります。

 

なので、自分が元気なうちは、養子をとることにためらってしまい、急なことに対処できず、改易になってしまうケースが非常に多くありました。このような理由から、末期養子の禁をゆるめて、五十歳未満の大名の場合は、末期養子を認めることにしました。

 

それと同時期に、殉死も禁止されました。また、将軍が大名から人質(証人)をとる大名の証人制もとりやめになりました。藤原惺窩などの儒学者が、こういった規制緩和政策に大きな役割を果たしました。





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