徳川綱吉による学問の奨励

徳川綱吉による学問の奨励

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徳川家綱の後継ぎが、五代将軍・徳川綱吉です。もと館林藩主だったのですが、家綱の養子になり、将軍に就任しました。最初のうちは堀田正俊大老のサポートを受けて、政治改革につとめました。彼が重要視していたのは、学問の奨励です。

 

徳川綱吉による学問の奨励

 

武力で人々を制圧するのではなく、文治政治をおこなっていくということは、法で支配していく世の中に変えていくということです。その法をつくるのは政治家の仕事ですが、儒学者が実質的にはそれを担っていました。

 

当時の儒学者たちは法をつくっていました。学問を奨励するといっても、勉強ばかりしていたということではないのです。朱子学、陽明学、古学という三つの派に大きく分かれる儒学ですが、幕府や藩は封建時代の秩序を保つことを理想としていたので、上下の身分をわきまえ、礼節を尊ぶことを大事にしていた朱子学を尊重していました。

 

 

つまり、支配者・為政者にとっては、下の者は上の者の言うことを必ず聞かなければならない、という学問の朱子学が一番都合がよかったのです。歌舞伎などでも、「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」というセリフが語られます。意味としては、親子は現世、夫婦は現世と来世、主従関係は前世と現世と来世にまたがる深い縁、というものです。

 

「主従関係のほうが、親子の関係より重要だ」という考えを人々に植え付けるためのもので、幕府にとってのみ都合のいい部分が目立ちます。いままでの武断政治なら、反逆するものは消していけばいい、で終わりなのですが、文治政治では、人々を教育というか、悪く言えば洗脳していく、ということをじっくりおこなっていく必要があったのです。その基礎をつくるために、学問が奨励されたのです。





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