阿衡の紛議とは?

阿衡の紛議とは?

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光孝天皇は高齢でしたのですぐに亡くなり、その子である宇多天皇が即位しました。そのときに関白に正式に任命されたのが基経でした。しかし、その基経を関白にするときに、いざこざが起こりました。これが阿衡の紛議です。

 

阿衡の紛議とは?

 

「基経を阿衡とする」と、宇多天皇が即位するときの詔に書いてあったのですが、これが基経の気に障ったようです。中国の古典の意味では、「阿衡」というのは「実務には関与しない名誉職」という意味合いが強く、基経はそこに文句をつけました。

 

本当は「基経を高い地位につける」という意味で書いてあったのですが、基経は半年以上にわたって全く政治をしませんでした。基経は関白としてバリバリ政務をこなしてきたため、彼に職場放棄されてしまうと、いろいろな政務がストップしてしまいます。

 

困った宇多天皇は、「そんなにへそを曲げないでください」と基経に政務に戻るように頼みますが、基経は、問題の勅書を書いた者をなんとかして、落とし前をつけるように言います。その落とし前をつけさせられた人物というのが、橘広相といって、文章博士をしていた人でした。結局、広相は罰を受けることになってしまい、藤原の政敵である橘氏は表舞台から消えてしまうことになります。

 

伴氏と橘氏は、政治の第一線を担うことはこれ以来ありませんでしたが、戦いで滅亡したわけではないので、上級貴族としては残っていきました。





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