藤原基経と関白政治の始まりについて
ツイート9世紀を簡単に説明すると、藤原冬嗣の時代が前期、藤原良房の時代が中期、藤原基経の時代が後期となります。冬嗣の子どもは良房ですが、良房の弟・長良の子どもが基経で、良房の養子になります。清和天皇と長良の娘である高子とのあいだに生まれた子どもが、次の陽成天皇というつながりになっています。
一つ覚えておいてほしいのが、摂政が天皇の代わりに政治を行えるのは、天皇が子どもの間だけということです。つまり、天皇が大人になったら、藤原氏がかわりに政治をすることはできないのです。当時は元服が十二〜十五歳で、摂政がイニシアチブをとれるのは、基本的には天皇が元服するまでです。大体即位するのは十八〜二十歳くらいで、それ以下で天皇になることはあまりありませんでした。
基経にしてみれば、できるだけ長く自分が政務をとりたいので、陽成天皇が大人になるまでに何か行動を起こさないといけません。そこで基経は、陽成天皇が大人になる寸前に、天皇を光孝天皇にしてしまいます。光孝天皇はすでに高齢でした。仁明天皇からみると、光孝天皇は仁明天皇の子どもで、陽成天皇は曾孫です。それだけの年齢差があり、しかも天皇の系列から見ると、かなりの傍流です。
本人も周りもまさかその人が天皇になるとは思ってもいなかったのですが、基経はあえてそういう人を天皇として立てたのです。性格的にも、光孝天皇はとても温和なおじいさんでしたので、あまり政務には興味がなく、すべてのことを基経に任せてしまいます。良房とは違い、すでに高齢だった天皇を無理矢理即位させて、みずからが政務をとるという、今までにはないパターンでした。
そこに関白という役職が生まれてきます。これは、成人した天皇をサポートして政治を行うという役職です。
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