応天門の変の謎について

応天門の変の謎について

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摂政とは、天皇が女性や健康上の問題があったとき、代わりに政務をおこなう役職のことです。推古女帝の摂政が聖徳太子だったのは有名な話ですね。このとき良房は太政大臣、つまり内閣総理大臣というポストについていましたが、左大臣の源信と大納言の伴善男が、彼が摂政になることについて反対をしていました。

 

応天門の変の謎について

 

いくら良房が権力をもっているとはいえ、有力閣僚の二人の反対にあってしまえば、そう簡単に摂政になれるわけではありません。重要なのは、源信と伴善男は決して仲良しではなく、むしろ犬猿の仲でしたので、こっちはこっちで反発しあっていた、ということです。ただ良房を摂政にするわけにはいかない、という事柄に関してのみ意見が一致していただけで、それ以外では伴善男は源信を疎ましく思っていました。

 

ここで応天門の変が起こることになります。応天門は伴氏が管理することに決まっていました。伴善男はみずから応天門に火をつけ、火事を起こし、責任を問われるのを待ちます。そしてすぐに朝廷は伴氏に原因究明の命を出しますが、犯人が警官になるようなものなので、伴善男は源信に罪をなすりつけることができる、というわけです。

 

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そして、調べたふりをして、次のように結論を出しました。「源信が、惟仁親王を天皇にしようとする数々の動きに反対意識をもっており、そのために応天門に放火した」そう証言して、源信を表舞台から降りさせようとしましたが、なんと、藤原良房には放火した真犯人がわかっていて、逆に伴善男のほうが伊豆に島流しにされてしまいます。

 

一方、源信は良房に助けられたようなかたちになるので、彼が摂政になることに反対できなくなります。つまり、恩を着せられて何もいえなくなってしまったわけです。応天門の変の様子は、「伴大納言絵巻」にそっくりそのまま描写されています。なにはともあれ、こうして良房は、応天門の変のあと、名実ともに政治的実権をつかみ、摂政となりました。866年のことでした。





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