藤原良房による承和の変とは?
ツイート件の淳和との申し合わせで、淳和天皇のあとは嵯峨系の仁明が即位しました。その背後で藤原冬嗣の息子の良房が力を持っていました。この次には何もなければ淳和の子である恒貞親王が即位することになり、当然権力も藤原から伴・橘に移ってしまうのは目に見えています。良房からしてみれば、権力はできるだけ保っていきたいので、それでは困ります。
そこで842年に起こしたのが、承和の変とよばれるものです。簡単にいえば、伴健岑と橘逸勢が謀反するかもしれない、という噂を流したのです。「恒貞親王を早く天皇にしたいがために、伴健岑、橘逸勢らは仁明天皇下ろしを企てています」という噂はすぐに広まり、政敵は失脚しました。それと同時に恒貞親王を皇太子の座から下ろし、仁明天皇の子の道康親王を皇太子にしてしまいました。
仁明天皇のところには、藤原冬嗣の娘である順子が嫁いでいて、この二人のあいだに生まれたのが道康親王です。良房からみれば甥にあたり、この道康親王が次の文徳天皇になることになります。しかし、良房の本当の目的は道康親王の即位ではなかったのです。
道康親王のところに嫁いでいた明子という妃がいたのですが、じつはこの人が良房の娘で、二人には惟仁親王という子どもがいました。この子を天皇にするのが良房の真の野望だったのです。そのためにはまず甥を天皇にするというステップを踏み、それから自分の孫を即位させようと考えたわけです。
結果、この子が清和天皇になりますが、数えでまだ九歳でしたので、いまでいう小学一年か二年生くらいの年齢です。その頃子どもは天皇になれないという慣例があったのですが、それには耳をかさず、強引に天皇にしてしまいます。当然、政治のことなどわかりません。その頃は子どもは母方の実家で育てられていましたから、天皇のかわりに、祖父である良房が自分の家で政務にあたることになりました。
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