藤原薬子の変とは何か?

藤原薬子の変とは何か?

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平城天皇は桓武天皇の次に登場しました。役所の統廃合など、幾つかの行政改革を実行した平城天皇でしたが、病気を理由に3年という短い期間で退位し、809年に弟の嵯峨天皇に位を譲りました。平城天皇は皇太子の時代から、長岡京遷都を指揮した藤原種継の娘、薬子をとても愛していましたが、この女性にはスキャンダルがつきもので、それが理由となって桓武天皇によって宮廷から追放されていました。

 

藤原薬子の変とは何か?

 

しかし、桓武天皇が死亡し、平城天皇に代がかわると、自分をかわいがってくれる天皇のもとで出世したいと考えていたのか、また宮廷に入り込んできます。けれど、たったの3年で平城天皇が辞めてしまい、これは薬子にしてみれば、とうてい納得できないものでした。そこで、どうにかして平城天皇を再び天皇にしたいと考えました。そのためには、まわりの協力を得ることが必要不可欠です。

 

ただ、「上皇をもう一度天皇にしましょう」と言ったところで、「なぜ?」と聞かれた時に、「だって、私、もっと出世したいんだもの」では、誰も賛同してくれません。そこで、「もう一度、都を平城京に戻すために、上皇を天皇に立ましょう」と理由をつけることにしました。そうすることによって、都を平城京に戻したいと思ってる人たちが自分に賛同してくれるだろうと画策したわけです。

 

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ただ、考えてみてください。平城京から長岡京に都を移したのが784年です、810年ということは既に26年もたっています。「どうして今更平城京に都を戻すなんて面倒なことをするの?」ということで、まるで賛同を得ることが出来ません。

 

それでも聞く耳をもたず、宮殿などを奈良に建て始めたため、反逆と認定されてしまい、そのバックにいた兄の藤原仲成は殺され、薬子も自害をするしかなくなりました。これが薬子の変です。

 

平城上皇は剃髪して出家し、奈良に住み続けたことから、のちに平城天皇と称されました。ちなみに、天武や聖武などの天皇の漢字の部分の名称は、その人がこの世を去った後に贈られたもので、諡号といいます。とにかく、この変の結果、藤原四家の一つであった藤原式家が没落し、かわりに北家が勢力を増してくることになります。





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