白河、鳥羽、後白河上皇

白河、鳥羽、後白河上皇による仏教信仰

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白河上皇のあと、鳥羽、後白河上皇も引き続き院政体制をとりつづけました。本当は院は仏教と何ら関係がないのですが、この三人の上皇がみな仏教を信仰していて、全員が出家して法皇になっています。

 

白河、鳥羽、後白河上皇による仏教信仰

 

ちなみに、道鏡のときの法王とは別物で、太上法皇を略して法皇といっています。有力な仏教勢力(たとえば南都の東大寺や興福寺など)は、巨大な荘園をもつこととなったのですが、これは当時の最高権力者が仏教との結びつきが強かったことと、藤原氏を抑えるために仏教勢力の力を借りていたことなどが理由にあげられます。
経済的、軍事的にも強力にするため、武士団を集めて僧兵なども編成していました。強訴を中央政府に対しておこなったり、国司と敵対するなど、だんだん無視できない勢力になっていきます。

 

ほかにも仏教勢力を増長させた理由として、末法思想という世の中の風潮もありました。すばらしい阿弥陀堂をつくって寄付したり、お寺にめいっぱいお布施したりすることが、極楽浄土にいくために必要なことだと思われていたからです。

 

それに対抗すべく登場したのが、次の鎌倉時代の新仏教です。例をあげますと、「念仏さえ唱えれば、だれでも極楽へ行けます」と法然は説きましたが、古くからある仏教界がそれを許すはずがありません。なぜって、信者からお金をとることでやっていけてたので、困るのです。なので、新仏教は旧仏教から弾圧をうけたのです。





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