後三条天皇による院政

後三条天皇による院政

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後三条天皇は、後冷泉天皇のあとに即位しました。この人の母親の禎子内親王は三条天皇と妍子のあいだに生まれた子で、父親は朱雀天皇なので、藤原氏との血のつながりは濃かったのです。重要なのは、三条天皇が母方の父親だということで、つまり後三条天皇は、三条院の家で育てられることになるのです。

 

後三条天皇による院政

 

後三条天皇からみれば妍子は祖母なので、養育とは直接関係がありません。妍子の娘で藤原氏の血を引いてる禎子内親王ですが、内親王ですし、三条天皇の娘でもあるので、彼女は藤原家の人間ではないということになります。

 

つまり、久々に摂関家との外戚関係を持たない天皇(後三条天皇)が即位した、ということになるのです。天皇が幼いころ、母方の実家で育てられているときに、その家の祖父が摂政・関白をおこなうというのが藤原氏のやり方でしたから、天皇がほかの家にいると、外戚が天皇の名前で命令することができなくなってしまいます。家が別だと、手が出せなかったのです。

 

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摂政・関白に外戚を置かない天皇は、宇多天皇以来のことでした。三十四歳のときに、後三条天皇は即位したのですが、これはとても異例なことでした。現在なら普通の年齢だと思う人も多いでしょう。しかし、摂関政治がおこなわれているときは、わずか二、三歳で天皇に即位し、十代を迎えると退位するというのが普通になっていたのです。

 

一度も三十四歳まで天皇になってないということは、彼は完全に傍流として見られていたということです。藤原氏のおかげでチャンスをなくしていたのでしょう。当然、後三条天皇は藤原氏に対して良い感情を抱いてはいません。冷遇されていたことによる反発が起き、藤原家と天皇家の権力の奪い合いがはじまります。

 

ただ、この頃は、たとえ外戚でなくとも、摂政・関白がついているのは当たり前のことでした。天皇をサポートする職としておなじみになっていたのですが、後三条天皇は前述したような理由もあり、摂政・関白に頼り過ぎない政治をしようと考えていたので、学者の大江匡房という人を登用します。





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