後三条天皇による延久の荘園整理令

後三条天皇による延久の荘園整理令

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摂関家を抑えるために政治改革に燃えていた後三条天皇ですが、その中でも最も注目すべき政策は、1069年に発した延久の荘園整理令です。これは、規準に合わない荘園をやめさせる法令で、同じく親政をした醍醐天皇のときにも発令されています。それまでに何度か整理令は出されてはいるのですが、なかなかうまく結果は出ていませんでした。

 

後三条天皇による延久の荘園整理令

 

その頃の土地は、大まかに二つに分けられます。一つ目は国衙領といって、これはもともと朝廷の土地で、いわゆる公有地です。国司の役所、つまり都庁とか県庁に値するのが国衙です。二つ目は私有地である荘園です。

 

税の徴収についてですが、国衙領は当然で、荘園からも徴収できることはできるのですが、なかには税がかからない荘園もありました。それが官省符荘と国免荘です。官省符荘の「官」は太政官のことを表していますので、要するに、民部省や太政官が税金を省くことを認めた荘園という意味で、国免荘のほうは、国司が税金の免除をOKした荘園ということになります。

 

太政官や民部省の証明書(官省符)があれば、税金が免除されるのですが、これは誰もが簡単にもらえるものではありません。たとえば藤原氏のような、位の高い貴族であれば、絶対に官省符はもらえます。では、その他の貴族はどうしていたのでしょう。国司に直接お願いして国免荘にしてもらう方法と、もう一つ、寄進といわれるやり方がありました。

 

これは、寄付してあげてしまうということではなく、平たく言うと、位の高い貴族の名義にして税金をとられなくするというやり方です。ごく普通の農民の土地であれば、確実に税金をとられますが、「ここは藤原氏の土地です」といってしまえば、官省符が出て税を徴収されずに済むというわけです。

 

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もし、官省符が出ていなくても、国司の任命権は藤原氏がもっているので、藤原氏の荘園には手が出せないのです。そうなると、全国的に寄進地系の荘園がたくさんできてきます。

 

もうひとついうと、寄進は都合よく土地の名義を藤原氏にしてもらうということなので、当然、名義貸しの貸し賃が必要になってきます。その結果、家元制度のように、全国から藤原氏のもとにすごく大きな額のお金が流れ込んでくるというわけです。

 

藤原氏は、律令官人としての収入と、自分たちの管理している荘園からの収入、そして寄進として全国から名義料が流れてくるので、莫大なお金が摂関家・藤原氏に入ってきて、栄華をきわめることができたのです。

 

 

こうした状況をみると、なぜ後三条天皇が、どうして荘園整理令を発令したのかが、自然と分かってくると思います。彼は藤原氏と距離を置きたいとも思っていましたので、それが院政へとつながっていくことになるのです。

 

これは余談ですが、さきほど「だいじょうかん」というものが登場したと思います。明治期にも、「太政大臣」というものがありましたが、そちらは「だじょう」と読み、明治以前はすべて「だいじょう」といいます。

 

 

 

記録荘園券契所の設置について

 

法律違反の荘園を停止させて、国衙領とすることが、荘園整理令の狙いです。つまり、荘園を取り上げるのが目的です。土地の名義を藤原氏のものに偽るというのは、当然法律違反で、脱税行為です。

 

今までの荘園整理令で結果がでなかったのは、国司に取り締まりを任せたからです。そもそも国司は藤原氏によってその地位に就かせてもらっているので、法律違反があっても取り締まれないのです。

 

 

そこで、後三条天皇は、荘園整理を国司に任せるのではなく、記録荘園券契所という役所を中央に設置し、そこで荘園整理をおこないました。すると、藤原氏の荘園でも何も気にせず停止させることができるので、元を絶てるということになります。

 

このとき宣旨枡というものが同時につくられましたが、これは米の量を量るものです。今までは米を計量する枡の大きさが各地で違っていたのですが、これにより一定の量が量れるようになりました。





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