治承・寿永の乱による源平の争乱

治承・寿永の乱による源平の争乱

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強引な策で一気に権力を自分のものにしようとした平清盛ですが、そうはうまくいきません。1180年の2月に安徳帝が即位しましたが、その2ヵ月後の4月には、後白河天皇の子どもの以仁王が平氏打倒の令旨(天皇以外の皇族が出した文書)を発足したことをきっかけに、治承の乱・寿永の乱、つまり源平の争乱が勃発します。

 

治承・寿永の乱による源平の争乱

 

最初のうちは源氏は優勢とはいえませんでした。一番はじめに挙兵したのは源頼政で、以仁王と一緒に戦いましたが、二人とも死んでしまったからです。その後も続いて各地で争いが起きますが、だんだんと源氏が優勢になってきます。源頼朝や義仲などのかたすみに追いやられていた源氏がどんどん戦いに参加してきたからです。その結果、6月に清盛は平安京を放棄せざるを得なくなり、福原京への遷都を決行します。

 

この福原というのは日宋貿易の拠点で、大輪田泊(いまの神戸港)があり、摂津国(いまの兵庫県)でした。日宋貿易の拠点にいれば、兵士たちの食料に困ることはないだろう、という予想のもとです。

 

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しかし、結局11月にはまた平安京に帰るはめになります。遷都に対して公家の反発が強く、福原に留まることができなかったのです。12月には後白河天皇は自由の身になるのですが、幽閉を解いたところで、反平氏の動きは止まりません。

 

ここで、平氏にとって致命傷ともいえる三つの出来事が起こります。1180年の南都焼き討ちが一つ目。平氏を倒すことに協力していた東大寺と興福寺に火をつけ、動きを止めようとしたのですが、かえって人々の平氏への反感をかうことになってしまいました。寺社を焼き払うなど、日本人は怒って当たり前です。

 

翌年2月に平清盛が急に死んでしまったことが二つ目。そして4月に養和の飢饉が発生したことが三つ目です。この飢饉に対して、平氏政権は良い策を出すことができませんでした。これらの事象によって、平氏に味方するものはほとんどいなくなってしまいました。

 

特にカリスマ性のあった清盛が亡くなってからは、崖を転がるように衰退していき、1183年に源義仲に攻め入られてしまいます。京を襲われて都に居れなくなった平氏たちは、立て続けに敗戦を繰り返して瀬戸内海をどんどん西へ渡っていき、ついに1185年、壇の浦にて、源義経と範頼の軍政によって滅亡してしまいます。





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