保元の乱と平治の乱について

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1156年に、保元の乱が起こります。鳥羽上皇が死去したのをきっかけに、崇徳上皇と後白河天皇のふたりのどちらが院政をおこなうかについて揉めたのです。この後白河天皇と崇徳上皇は兄弟で、鳥羽天皇の息子です。ちなみに、上皇のほうがお兄さんです。どちらの味方をするかで、源氏は義朝と為義・為朝、平氏は清盛と忠正がそれぞれ敵対することになります。

 

保元の乱と平治の乱について

 

結局、平清盛と源義朝たちが武士を引き連れ、上皇方に打ち勝ち、保元の乱は天皇方が勝ちました。平清盛・信西(藤原通憲)と源義朝・頼朝・藤原信頼の争いともいえる平治の乱は、保元の乱から3年後の1159年に起こりました。ここではじめて後々鎌倉幕府を開くことになる頼朝が登場しますね。

 

藤原氏の中で藤原信頼と信西が敵対関係にあったのですが、そこでまず信西を殺すために、藤原信頼は源義朝とタッグを組みます。平清盛は自分たちの派閥の人間を殺されたことに腹を立て、藤原信頼、源義朝を立て続けに倒しますが、頼朝はまだまだ元服前の子どもで、弱冠十四歳でしたので、殺さず伊豆に島流しにします。

 

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そんなことがあって、皮肉なことに、東国武士と源氏が繋がりをもつことになるのですが、それについてはまたのちのちみていきましょう。なぜ頼朝が伊豆に流されたというと、清盛は瀬戸内海の貿易権をもっていたので、九州の大宰府は大事な拠点でした。普通は島流しというと、遣唐使廃止以前は伊豆で、その後は大宰府と相場が決まっていたのですが、清盛にとって大事な大宰府に反逆者を流すわけにはいかなかったので、伊豆になったのです。

 

この乱が起こってからというものの、その頃の院にいた有力者や権力者、中でも特に力を持っていた信西までもがばたばた消えてしまい、平清盛のみが生き残るということになりました。清盛のもとに権力が一気に集まるのは自然なことです。

 

その結果、平清盛は朝廷の最高位である太政大臣という地位に就くことになりました。1167年のことで、武士では初めてのケースでした。さらに、彼の一族が朝廷の重要な地位にどんどん就いていき、強大な権力を背景に、各地の有力な武士を家来にし、荘園・公領の地頭(土地管理のために置かれた現地の役職)につけていきました。





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