文永の役による元寇(蒙古襲来)とは?

モンゴル帝国と元の成立

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第八代執権である北条時宗の時代に、ある重大な事件が勃発します。それが、蒙古襲来(元寇)だったのですが、その対応に時宗は悩まされ続けることになります。12世紀末から13世紀はじめに日本では鎌倉幕府ができていますが、それと同じ頃に、中国大陸では、モンゴル帝国がチンギス・ハーンによって成立しました。その孫であるフビライ・ハーンは、元を1217年に建国することとなります。

 

文永の役による元寇(蒙古襲来)とは?

 

中国の古くからある中華思想(自己を文化の中心の「中華」とする考え方)を大切にしてきたフビライは、その発想にもとづいて、まわりの人たちに服属を求めるようになります。例をあげると、朝鮮半島の高麗、吐蕃(チベット)、越南(ベトナム)などに服属を要求しました。そして、高麗や吐蕃がそれに従ったあと、日本に対しても元は服属しろと要求してきたのです。

 

文永の役とは?

 

元から突きつけられた服属要求ですが、このときの執権であった北条時宗はどのように応えたのでしょうか。なんと、使者の首だけお帰りいただくという、なんとも強固な姿勢でのぞんだのです。時宗は使者の首をはねて、従者に持ち帰らせ、「日本は絶対に服属しない」と返答しました。

 

当然、このあと、元に攻められる可能性は非常に高いということで、異国警固を九州の博多湾沿岸の御家人に命じて、攻撃に対しての準備をととのえました(これはのちに異国警固番役となります)。

 

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元は前触れも無く、いきなり攻め込んできたわけではなく、使者をたてて服属しろといってきたわけなのですが、それを強硬手段で断ったため、それに対する制裁として進攻してきました。これが1274年の文永の役で、一度目の襲来です。

 

一騎打ちというのが、その頃の日本の合戦の基本的なスタイルでした。一概に一騎打ちといってもいろいろありますが、代表的なものは、争う相手が出てきたら、まずはお互い自己紹介をして、そこから戦闘に入っていました。

 

のどかだと思われるかもしれませんが、でないと、自分が争った相手がどれくらいの格の者かわからないので、せっかく討ち取ってもあとで恩賞がもらえなかったのです。蒙古に攻め入られたときも、これと同じスタイルで「やあやあ、われこそは・・・・」と日本人は馬に乗ったまま戦う相手の前でやってしまったのですが、相手は当然待ってなどくれません。名乗る前にいきなり攻撃されてしまったので、「おいおい、これはちょっと様子が違うぞ」ということで、非常に焦ります。

 

 

モンゴルは火薬を用いた武器も使用していて、弓も持ってはいましたが、基本的に集団戦法でした。その頃の資料に「てつほう」とありますが、これは鉄砲とはちがい、敵を混乱させるために、火薬の入った容器を爆発させて、音と煙を出す武器だといわれています。武器も違っていたし、戦法もまったく異なるものだったので、最初は四苦八苦しました。

 

結局、博多に上陸されてしまい、大ピンチを迎えるわけですが、この時暴風雨が起こって元軍はそれ以上すすめなくなり、間一髪、幕府軍は元軍を撃退することができました。そのころ偶然にも台風の季節だったというのもありますが、モンゴル人は騎馬民族なので、船で戦う方法を知らなかったのです。文永の役のときは、部下の高麗軍に船の操縦を任せていたのですが、高麗の軍勢はあくまでも元の命令で動いていたため、大してやる気でもなかったのです。

 

いろいろな幸運が重なって、文永の役では何とかなりますが、そのあとまた攻め入られて上陸されても困るので、石塁という石の塀を博多湾の沿岸につくりました。





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