文永の役による元寇(蒙古襲来)とは?

弘安の役とは?

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蒙古は一度のみならず、そのあともまた襲来してきますが、今度はまた様子が違いました。中国の南宋が1279年に滅亡します。元をモンゴル民族が建国すると、宋は南へ追いやられ、そのうち滅びてしまい、元の領土の一部に組み込まれます。その2年後である1281年に弘安の役が勃発しますが、これが二度目の元寇です。

 

弘安の役による元寇(蒙古襲来)とは?

 

一度目の襲来のときは、朝鮮半島側の東路軍のみでした。しかし、二度目は大陸からの江南軍も押し寄せてきて、二手に分かれて博多湾を襲いました。さらに、敵の数は一回目を大きく上回っていて、十万人くらいだったといわれています。

 

しかし、また同じ結果を迎えてしまいます。いくら数を増やしたところで、モンゴル軍側に航海術がないことに変わりはないですし、二度目も同じく台風に遭って失敗してしまいます。こうなると、「神風」といわれてもおかしくありません。

 

元は諦めることなく三度目の元寇を企てていたようですが、帝国自体も弱くなりつつあって、それ以上攻めてくることはなくなりました。

 

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窮乏する御家人たち

 

蒙古軍の撃退には成功しましたが、国内事情のほうに元寇は大きな影響を与えました。時宗の次代である第九代執権・北条貞時の頃になると、目立ってきたのは御家人の窮乏化でした。前にも書いたように、御家人と幕府の関係は、御恩と奉公で成り立っています。とても分かりやすいシステムで、努力すればそれだけご褒美がもらえていました。

 

しかも、江戸時代とは異なり、御家人は給料をもらっていたわけではありません。武器なども全部自分で買ってそろえて、それで戦い、名を上げることでご褒美をもらい、生活を立てていました。ご褒美がもらえない人たちは、自然と消えていったのです。

 

そこで、元寇は久しぶりに手柄を立てるチャンスだとばかりに、家などを売り払ってまで準備をして戦いにのぞむ御家人もいました。しかし、勝ったはずなのに、なにも見返りはなかったのです。なぜかというと、勝手に来たものを追い払っただけなので、何も得ていないからです。

 

 

日本軍の被害という被害も特になく、国内の戦いで今まであったように、滅んだ人たちの土地を分け与えることもできません。どこにも被害がないので、何もあげられないのです。「蒙古襲来絵詞」という有名な絵巻物があります。戦いの様子が鮮明に描かれていて、同じ時代の作品なので史料的にも価値があるものなのですが、これは本当は「自分はこれだけ働いたのだ」ということを言いたいがために、竹崎季長という肥後の御家人が、画家に頼んで描かせたものだったのです。

 

「これだけの成果をあげたので、それに見合うご褒美をください」と文章でアピールしたり、偉い人のところへ行って言葉で必死に伝えた御家人もいました。アピールがうまければご褒美の量や質に差が出る時代だったので、こうした絵も残されているのでしょう。

 

 

しかし、前述した理由によって、どれだけ必死にアピールしても何も恩賞はもらえません。もらえたとしても微々たるものなので、生活が苦しくなって当然です。その頃の御家人たちは、土地の相続に分割相続を適用していて、父親が亡くなったとき、その遺産を庶子(相続人以外の子ども)を入れた子ども全員で分けて相続するという方法だったので、一人ずつの取り分はとても少ないものでした。

 

つまり、がんばって奉公してご褒美をもらっていかなければ、貧乏になっていくばかりだったのです。





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