北条泰時による御成敗式目の制定
ツイート北条義時の次に執権に就任したのは泰時です。1224年のことで、彼は三代目でした。その翌年の1225年に、初代別当である大江広元と北条政子がこの世を去りました。幕府での人間関係の基本は、まず将軍・源頼朝という主人がいて、その配下である御家人が周りをかためている、という構図でした。
頼朝と御家人が主従関係を保てているのは、主人が御恩を与えるかわりに、家来たちは奉公するというように、お互いに助け合っていたからうまくいったのです。将軍が家来に与える御恩とは、本領安堵と新恩給与があり、前者はもともと御家人が持っていた土地の支配権を将軍が守りますよ、というもので、後者は新しく土地を分け与えますよ、という意味です。
それに対して、御家人側からの奉公とは、戦争が起こった時には命をかけて将軍のために戦うこと(軍役)、戦いのない平和な時は、京都大番役、鎌倉番役などをつとめることで果たされていました。
こういった持ちつ持たれつな関係があって、源頼朝が生きていたときは、御家人たちは頼朝のいうことを聞いてくれましたが、頼朝が死んでしまってからは、大江広元や頼朝の妻の北条政子が「頼朝ならこんなときはこうしていたはず」と、御家人たちをなだめていました。
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しかし、その二人がほぼ同時にこの世を去ってしまったので、御家人たちに命令を下せる司令官のような人がいなくなってしまったのです。これはその代わりになるものをつくらなければならない、ということで、1225年に執権をサポートする役として、連署を設置します。その名の通り「執権と連名で署名する人」のことを指します。
執権が北条泰時のときに、補佐役の連署に任命されたのが、泰時の弟である時房でした。得宗とは、北条義時の直系の家系のことをいいますが、連署は得宗家以外の人から選ばれていました。
また、同じ年に、合議機関である評定衆を設置します。以前の十三人の合議制のときは、カリスマ性のない人物が将軍で、その下の十三人が立場的に並列だったので、その中で主導権をめぐって争いが起きていました。
今回は執権というトップがいて、さらにその補佐役の連署がおり、そのもとで評定衆が合議するというやり方です。これは勘違いする人が多いのですが、執権政治というのは、執権が政務をとることではなく、執権・連署・評定衆の三者によって合議し、政治をしていく体制のことなので、間違えないようにしてください。
この体制の利点ですが、三者によって合議していたからこそ、ほかの御家人がないがしろにされることなく、自分の意見を言う場が設けられていたので、それによって不満がたまることなく楽にまわせていけたのかもしれません。
それだけでなく、泰時がおこなった政策のなかでも最も重要なものとして、1232年の御成敗式目の制定があります。その年号をとって、貞永式目ともよばれます。これは日本ではじめてできた武家法で、御家人だけに適用される法律です。どういったものかというと、武家社会の道理(道徳)と先例(慣習)で、特に大事なものは先例でした。
先例とは、「頼朝だったらどうしていたか」というものが集められた法令集で、つまり頼朝がやってきたことを基本にして、それを法令にしたものです。現代の会社は三代目で倒産することが多いようですが、北条ファミリーは違いました。
十三人の合議制でトップになったのが初代の時政。和田義盛を殺し、実朝を倒し、承久の乱に勝利して「執権政治の体制」をつくったのが二代目の義時。それを誰がやってもできる身近なシステムとして確立させていったのが、三代目の泰時でした。
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