愛国社再興と国会期成同盟について

愛国社再興と国会期成同盟について

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「国民皆兵」のスローガンのもと、1873年に徴兵令が発令されました。これは、士族・平民の男子で、満二十歳以上の人に3年間の兵役を課すというものです。1877年に起こった西南戦争の結果、西郷隆盛は敗北してしまうわけですが、西郷は戦争に関しては天才的なものをもっていて、戦いの神様である彼が負けるなどと思った人はいなかったので、日本中に衝撃が走りました。

 

愛国社再興と国会期成同盟について

 

その西郷軍を負かしたのが、いわば寄せ集めの軍隊で、4年前にはじまった徴兵令で集められていた農家の次男坊や三男坊で構成された兵士でした。この事実は、政府に武力で反発しても勝てないということを、士族たちに強く印象付けました。

 

武力がだめなら口で言い負かそう、ということで、国会開設を求める意見書である立志社建白を、土佐出身の片岡健吉が出そうとしました。そして、いままで弾圧を受けて一時中断していた愛国社が、1878年に復活します。それが名前を変えて国会期成同盟となりました。1880年のことでした。

 

本当は1875年に、漸次立憲政体樹立の詔が出ていたのですが、「漸次」というのは「そのうち」という意味なので、「そのうちつくりますよ」ということは、いつつくるかの確約はしていないということです。

 

 

それに対して、期日をきっちり決めて成立させるという「期成」という言葉が今回のものには含まれているので、いつつくるのかはっきり決定させてくれ、という訴えだったのですが、これに対して、明治政府は集会条例で圧力をかけてしまいます。





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