デフレ政策の代償とは?
ツイート松方がおこなった政策の結果、物価が下がります。物価が下がると、家計が助かる人々は大助かりだと思いがちですが、そうでもありません。その頃の物価の判断基準は米価だったのですが、この米価が三分の一くらいに下がってしまっていました。
江戸時代のような年貢とは違い、明治時代の税金は、1873年に地租改正があったため、地価に税がかかっている地租方式に変わっていました。土地を持っている人に地券が発行され、その地券に持っている土地の価格(地価)が書かれています。
その金額の三パーセントを納税しなければいけないので、つねに一定の定額金を納めることになるのです。お米がどれだけ取れたかとか、お米の価格には左右されません。なので、お米の価格がたとえ三〇パーセント下がったとしても、それに比例して税金も一緒に安くなるということはありません。米価にくらべて、税金が三〇パーセントも割高になっているのと同じなので、税引き後の手取り収入が下がってしまうのです。
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とくに貧しい農民たちは生活が苦しくなり、そういった農民たちは土地を手放すはめになり、小作農や賃金労働者にならざるを得なくなります。そのころの賃金労働者はものすごい低賃金で働いていたので、社会の底辺になっていきます。
結局、彼らは自分から耕作しなくても、小作農からの地代、要するに土地を借りるお金だけで生活できる寄生地主となり、農村の階層が分かれていくのです。豊かな人はますます豊かになりますし、貧乏な人はその逆です。デフレ政策は、そういったことを引き起こしました。
すると、デフレ政策に反発が起きて、貧しい農民達を軸に激化事件(武力による直接行動)が頻繁に起きてきます。これに、板垣退助が率いる自由党の一部過激派も加わってきました。ここでよく覚えておいてほしいのが、その頃の民権運動を率いていた自由党のトップたちは、庶民や貧しい人々の為だけに運動していたわけではないということです。
自由民権運動というのは、薩摩・長州の横暴さに辟易としていたり、損をしている人たちが、土佐・肥前の板垣退助たちと一緒に行動することで、なんとか自分たちも権力を持とうという運動なのです。現在でも、「国民の生活が第一です」と言っている政党のトップたちは、大きな御殿に住んでいたりしますね。
激化事件とは?
激化事件は、重要なものだけでもいくつかあって、1882年に福島事件、1883年に高田事件(新潟県)、1884年に加波山事件(栃木・茨城県)、秩父事件(埼玉県)、飯田事件(長野県)、名古屋事件と、いろいろなところで立て続けに起こっています。
そのなかでも秩父事件は、一万人規模の大事件で、貧しい人たちが秩父困民党をつくり、借金の棒引きなどを求めて武装蜂起しました。そして、こういった激化事件をきっかけに、自由党のトップたちは、自分たちの運動は農民一揆などとは違う、ということを理由に、手早く自由党を解散してしまいました。
農民一揆にばかり参加していて、政府に目をつけられると、本来やらなければいけない政治活動がしにくくなる、ということのようです。この時、立憲改進党の党首だった大隈重信も、そのポストから降りています。なので一時、農民一揆と化していた自由民権運動は停滞します。
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