足利義満による南北朝合体について

足利義満による南北朝合体について

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南北朝合体、明との国交を樹立、守護の勢力削減の三つの事柄を、三代将軍である足利義満はやってのけます。まず最初に、1329年の南北朝合体についてです。

 

足利義満による南北朝合体について

 

当初は、両者は特に仲が悪かったわけではなく、南朝は吉野に、北朝は京に存在していました。南朝のほうに天皇を象徴するものである三種の神器があったのですが、後亀山天皇と後小松天皇の二人が、それぞれ吉野と京で正当性を力説していて、中途半端な状態にありました。それを、義満がなんとかしようとしたわけです。

 

どうやったかというと、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に位を譲るというかたちで、二人の面目が保たれるように気をつけつつ、南北朝合体を成功させました。そのあとも後小松天皇は天皇のポストにいつづけることができるので、面子は潰されません。

 

南朝側は、納得しているかどうかは別として、天皇の位を自分から後小松に譲ってやったんだということで、前天皇として顔も立ちます。北朝側は三種の神器も一緒に手に入れることができるので、名実ともに一系の天皇として存続することができます。

 

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納得の上合体することで、後亀山も後小松も将軍に対して敬意を表したので、三者全員にとって、すべてうまくまとまったということになります。南北朝合体という大仕事のあと、1394年に将軍職からおりた義満は、公家の最高位である太政大臣に就任しました。

 

さらに、朝廷の権威をバックにつけるためにも重要なステップなのですが、後小松天皇の准母(天皇の母に準ずる地位を認められた女性)が義満天皇の妻となりました。初期の室町幕府では、将軍職は自分が生きている間に誰かに譲るというのが普通でした。

 

自分が死んだあとに跡目争いが起こることを防ぐことができるからです。また、公家社会の中では征夷大将軍というのはそこまで高い地位でもなかったので、太政大臣という高い地位に就任することによって、将軍家の権力を絶対のものにしていくことにもなりました。





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